「先生と一緒」
星奏学院学内音楽コンクールが終わってからも、日野香穂子のバイオリン練習は終わらない。
それは、コンクール出場をきっかけに音楽の楽しさを知ったのと、香穂子が密かに想いを寄せている音楽家教師・金澤紘人と会う為の口実にもなっているからだ。
教師と生徒という関係上、想いを口にすることは出来なくても、音色にその気持ちを乗せて・・・・・そう。香穂子がバイオリンを弾くのは、大好きな紘人への想いを伝えたい為だ。
今日も音楽準備室で、バイオリンの練習。静かに聴いてくれるのは、大好きな紘人のみ。香穂子にとっても、紘人にとっても幸せな時だ。
演奏を終えると、紘人はゆっくりながらも、しっかりした拍手を香穂子に贈った。香穂子は嬉しそうに笑顔でお辞儀をする。
「この間の課題を難なくクリアしたな、日野。最後の4フレーズも完璧だった。」
「はい。頑張りました!」
「ほんと、お前さんはみるみる上達していくな・・・っと、もうこんな時間か。さぁ、早く帰った、帰った。」
紘人がふと時計を見てみれば、時刻はもう18時になろうとしていた。遅くまで残っている生徒にも、帰るように義務付けられている時間だ。
仕方なく、香穂子はバイオリンをケースにしまったのだが、どうにも心が落ち着かない。思わずボソリと呟いてしまった。
「・・先生。私、帰りたくないです・・・」
「おいおーい。お前さんのような生徒ばかりだと、俺の帰る時間が遅くなるだろうがー。」
紘人が面倒くさそうにそう言うと、香穂子は少し唇を尖らせて紘人を見つめた。
「・・先生は、私とこうしている時間が嫌ですか?」
「・・・いやいやいや。誰がそんなことを言った?」
「今、先生が言いました!私に、早く帰れって・・・」
「そりゃあ、俺は教師で、お前さんは生徒だからなぁー。生徒を早く帰らせるのは、教師として当然の義務だろう?それに、18時は学校で定めた生徒の下校時間だしな・・・頼むよー、日野さーん。」
紘人の言い分は最もなことで、責められるべき所は何もない。
しかし、大好きな人の傍にいたい気持ちが香穂子の中でおさまることはなく、過ぎ行く時間が恨めしかった。時間なんてなければ、紘人とずっと一緒にいられるのに・・・・
「・・・私、先生と・・・・」
「ん・・・?」
「・・先生と、もう少し一緒にいたいんです・・・ダメですか?」
身長差もあることで、少しだけ瞳をウルウルさせながら上目遣いで紘人を見つめてくる香穂子は、紘人の中では反則事項でしかなかった。
自分を長い失恋の痛みから解放してくれた大事で可愛い生徒の願いなら、聞き入れたくなってしまうじゃないか。
出来ることなら、紘人だって香穂子と一緒にいたいし、例えワガママであっても香穂子の願いは叶えてあげたい。紘人は溜め息をつくと、そっと香穂子を抱き締めた。
「ハァ〜・・・・日野。これでいいか?」
「・・先、生・・・・」
思い描いてなかった、紘人の腕の中。こんなに温かくて、優しいなんて・・・少しだけ煙草の匂いも感じられて、紘人の腕の中にいるのだなぁ、と感じられる。
紘人はいい子と言わんばかりに、片手で香穂子を抱き締めながら、もう片方の手で香穂子の頭をそっと撫でた。香穂子は嬉しくなって、つい紘人の胸に顔を押し当ててしまう。
自分に甘えてくる香穂子は、年下であり、更に自分が心惹かれていることもあってか、愛らしさが格別だ。紘人はそう思いながら、香穂子の髪をそっと手で梳いて、おでこに軽くキスをした。
「!!」
「さ、良い子は帰った、帰った。」
香穂子は、紘人にいわゆる『デコチュー』をされたことで、完全に思考が停止してしまっていた。まさか、まさかそんなことをしてくれるとは思ってなかったから。
あまりに嬉しすぎるハプニングに、香穂子は顔を真っ赤にして、紘人を見つめることしか出来なくなっていた。
「あ・・あの。せん、せ・・・」
「ほら、日野ー。もう18時過ぎたぞー?」
「先、生・・・・あの、はい・・・」
紘人の言うことが、左耳から入って右耳から出ていってしまいそうだ。その位、香穂子の中では何も考えられなくなっていて、驚くことしか出来なかった。
まだ顔を真っ赤にして驚いている香穂子があまりに愛らしくて、思わず紘人は香穂子の耳元で囁いた。
「・・明日、また来るんだぞ?お前の為に、俺はずっとここで待っているから。」
香穂子の耳元で甘く囁かれる声。それが大好きな紘人のもので、『待っている』なんて言われたら『No』と言える訳がない。
紘人の温もりと格好良さをまともに感じ、香穂子はバクバクという心臓の鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと思いながら、嬉しさのあまり、笑顔で返事をした。
「せ、先生・・・はい!私、また明日来ます!先生の為に、必ず弾きに行きます!」
このまま『大好きです、先生』と言いたかった香穂子だが、何とか押し止めた。喉元まで出かかっていたが、それは紘人との約束。想いは、口に出来ないから。それを音色に託す為に・・・・
「おー。待ってるぞ、日野。また明日な。」
「はい!先生、さようなら!また明日!」
紘人とこうして一緒にすることに満足した香穂子は、笑顔で手を振って紘人に挨拶した。紘人もまた、そんな香穂子を笑顔で見送る。
今日は最高にハッピーな日になった。明日は、今日以上にハッピーな日になると良いなぁ〜。そして、その次の日はもっとハッピーになるんだ。
「明日も頑張ろうっと!先生の為に・・・・」
紘人のことを思い浮かべるだけで、香穂子は楽しくて、幸せな気分になれてしまう。紘人には直接言えないけれど・・・・
「・・先生、大好き。」
香穂子は小さくそう呟いて、自分で照れながらも、ずっと紘人のことを考えては、幸せに浸るのだった・・・・・
END.
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