「賈氏、悪りぃ、ちょっとやりすぎた」
大きな声で語りかけながら、一家の主人が入ってくる。
末の息子が満面の笑みで父親にまとわりついていた。
2人とも、全身泥だらけ。
しかし無論、泥だらけの姿を見たくらいで驚くようではこの家の主婦が勤まるわけもなく、
また夫も、それくらいのことでわざわざ断りをいれてくる筈もなかった。
(泥だらけの衣服の洗濯だって大変なんですけれどもね)
たまには恨みごとを言ってもいいんじゃないかしら、と
内心では思いつつも、
口に出す気にはどうしてもなれない。
こうでなければ黄家ではなく、賈氏はこの家族をこそ愛しているから。
だから凛とした声では
「どうなさったのです」
とだけ問いかける。飛虎はぼりぼりと頭を掻きながら
「まあ、ちょっと来てくれや」
と答えた。稽古に、いや、遊びに夢中になって、何かをだめにしたのであろうことくらいは
容易に察せられた。
2人のあとについて庭に出た彼女は、しかしさすがに絶句する。
今を盛りと咲き誇っていた一角が、
茎は折れ、土は剥きだしとなり、
花は踏みしだかれていた。
少しばかりいつもより大きく見開いた目で夫を見上げると、
ぽつぽつと言い訳が返る。
「いや、天祥とちょっと遊んでやってたんだけどよ、
けっこうこいつは巧く身をかわすし、
いいとこ突いてきて隙見せられないしでさあ、
つい熱くなっちまって・・・・・。こいつは強くなるぜ」
そう、結局は嬉しそうな声の調子。
「僕、父さまから一本取ったんだよ!」
こちらはまたためらいもなしに。声だけでなく顔だけでなく、体全体が喜びを表現している。
「いや、気がついたらお前の花こんなにしちまってたから・・・つい気をとられたら天祥に・・・」
あなた、言い訳なさるのはそこなのですか?
それでも少しは花のことも気にかけてくれたのかと思うと微苦笑は禁じえない。
数瞬ののち、微笑をおさめた賈氏はちょっとだけ飛虎を優しく睨むと、静かな声で言った。
「天祥、納屋から鋏を持っていらっしゃい」
とたとたと天祥は走り去り、また走って戻ってくる。
「はい、母さま、これでいい?」
ええ、と賈氏は身をかがめる。
踏み潰された鈴蘭や松葉菊はもう無理なようだけど、
桜草、チューリップ、ガーベラにひなぎくは幾らか切花にできるでしょうね。
陽当たりが必要だからと、皆がよく遊んでいる広い芝山の脇に植えたのが
仇となってしまったわ。
あら、山吹や沈丁花の枝も折れている。ごめんなさいね。
様々に考えながら、水に挿せばいのちのありそうな花を手際よく切っていく。
「こいつはまだ埋めたら大丈夫かな?」
大の男が覚束なげに言う様子が可笑しい。
「そうですわね。お水も持ってきてくださいな」
「僕もやる!」
草花も夫も息子もそれぞれに愛しく、やっぱり恨みごとを言おうとは思えないのだった。
半刻もすればあたりはきれいに片付いた。
埋め戻したものには水を遣り、どうしても駄目なものは抜いてしまい。
折れた枝も整理して、切花は天祥が抱えている。
「うわ、いい匂い!」
大きな花束に顔をうずめるほどにして天祥が叫ぶ。
「ええ、お日様の光をたくさん浴びていましたからね。
さあ、天祥、それを台所まで運んで頂戴。」
「うん!」
恨みごとはないけれど、子どもに伝えるべきことはある。
本来永らえるはずだった花のいのち。
台所で賈氏は大きなたらいに水を張り、天祥に鋏を渡した。
「水の中で茎の先のほうを切るのよ。そうね、今の切り口から指の長さくらい上のところが
いいかしら。」
水の中で道具を使うのなんてはじめてで、天祥は夢中になっている。
ぱちんぱちんと調子よい。
「水の中で切ってあげると、花はたくさん水を吸って、長持ちするのよ。」
「ふーん」
彼は今度は枝を切るのにてこずっている。
「沈丁花の枝は固いから、鋏で切れなかったら手で折ってもいいわ。
切ってあげましょうか?」
「いい、自分でやる!」
枝を賈氏が支えてやって、両手で鋏を使ったらどうにか切れた。
こんなときの息子の笑顔は、どの子のも、何度見ても飽きることはない。
「花瓶はどれがいい?」
「うーん・・・これがいいな」
色とりどりの花と見比べて、天祥は白磁の花瓶を選んだ。
それから傷んだ葉や色の変わり始めている花を除けて、ああでもない、こうでもない、と
きれいに見えるように花を入れた。ようやく納得のいくかたちに落ち着いたとき、
賈氏は表情を改めて天祥に言った。
「天祥、これはあなたの花よ。お部屋に飾っておきなさい。そして世話をしてあげて。
毎日お水を替えて、傷んだものを除けてやって丁寧に面倒を見れば、
外で咲いていたときと同じくらい長くもつかもしれないわ。」
「え、僕にくれるの?」
驚いて目を丸くしている子に賈氏は頷く。
「ええ、あなたのものよ。大事にしてね。」
「うん!母さま、ありがと!兄さまたちに見せてあげてもいい?」
「ええ、もちろんよ」
駆けていった天祥を見送ったあと、賈氏は花に目をやった。
色とりどりの春の花はいつまで保つだろう?
いつまでにしろ綺麗な花は息子に何かを残すだろう。
春が過ぎ、子どもたちはすこしづつ大人に近づいていく。
それはとても寂しいようでも嬉しいことだと、
子どもたちが年々似通ってくる夫の顔を思い浮かべながらそう思った。