これでも案外、天化の朝は早い。
さっさと床を離れ、猛暑の季節にあってさえも清々しい朝だけの空気を胸いっぱいに吸う。
それから散歩代わりにふらっと走り出す。草原に、あるいは田畑に、あるいは山に。走り飽きるまで豊邑の街から離れ、一息ついて帰ってくるころには朝餉の時刻だ。
もっとも王サマの護衛についていたり朝の練兵に付き合う約束をしていたり、稀には気が向かなかったりするから、日課というほどに確たる習慣ではない。けれど、要は機会がありさえすればじっとしていることは出来なかったと、ただそういういうことなのだ。ましてや今は夏だから。
風を切って駆けたくなるのは俺っちだけじゃないはずさ、と天化は思う。王サマを叩き起こして連れ出してみるさ?ほんとうはみんな走りたいはずさ、と疑いもなく彼がそう思っているのはたぶん天化以上に走ることを楽しんでいた師父の責任で、それでも実際に他人を叩き起こしたりはしないのは、一体どこで身に付けた彼の良識なんだろう。(だって道徳は天化を騒ぎ起こして連れ出していたというのに?)
だから今日も彼は一人で、走ってきた。淵のほとりに茂った森。ありゃ、と天化は首を傾げる。気の向くまま走ってきたら、たどり付いたのは何のことはない、いつも太公望が釣れない魚を釣っている岩場だった。そこで天化はどうせだからといつもスースが腰を下ろしている大岩に寝転ぶ。何せここがいちばん陽あたりも見晴らしもよいのだから。しばらくぼうっと時を過ごす。陽が燦々と照りつけるが、暑いとは思わない。早朝ということもあるがそれでもやはり。
もう、秋さね。それでも彼が思うのは、過ごしやすくて走るのにいい季節さあ、ということ。ギンヤンマがついと天化の視界を横切って飛んだ。
ん?無意識に眼で追った蜻蛉の影の向こうに、こちらへと向かってくる何かを彼は認める。遠くに見えた黒い点はでもすぐにはっきりとした形を現し、天化はにやっと笑った。
「天化兄さま!」
声を聞くまでもない、天祥と彼を背中に乗せたナタク。天化はむっくり起き上がる。予想どおり天祥はそこへ飛びついてきた。
「こんな朝早くから、どうしたさ、天祥?」
当然の疑問を投げると天祥は口を尖らせた。
「違うよ、早いのは天化兄さまじゃないか。今日はやっと間に合ったんだよ。外に出たらまだ天化兄さまの姿が小さくだけど見えたから、ナタク兄ちゃんに連れて来てもらったんだよ。」
そして「ナタク兄ちゃん、ありがと」と振り向く。天祥を下ろしたところからすこし離れ木蔭に浮いていたナタクは、フン、といつものように鼻を鳴らして応えた。
どうやら朝ふといなくなるたび弟に捜されていたらしいことを聞かされて、そっか、早いのは俺っちかと天化はようやく気がつく。「それもそうさね」と苦笑して、答えた。
「そうだよ!それで、兄さま。ここで何してるの?」
「へ?」
すかさず言葉を継いだその質問の意気込みからしてどうやら天祥はそれをずっと知りたかったようだった。だがそれはあまりに思いがけない問いで、天化は間の抜けた声を出してしまう。
「えーっと、そうさね。
俺っち何しに来たさ?」
探して答えなど見つかるはずもない。彼は特に何かをしに来たわけではないのだから。ただ走りたかったから走ったというそれだけ、走り飽きたから止まったまででここが目的地だったわけではないのだ。
けれど待ち顔の天祥を見ると、それではとても納得してもらえそうにない。何て言ったらいいさ?と考えつつ、天化は不意に、思い出した。
そういえばむかしは、出かけた先にはいつも目的があったさね。
道徳ははじめ毎朝天化を叩き起こしていた。「おはようっ、天化!泳ぎに行くぞっ!!」「そろそろ木いちごが食べ頃さっ!」「早く起きないとカブト虫が逃げてしまうぞっ!」
そのころは確かに、いつも何かをするために出かけていたのだ。今の今まですっかり忘れていたけれど、それはすごく懐かしいことのような気がする。「おはよう、天化!走りに行くぞっ!」それが手段でなくて目的になったのはいつごろからか。朝そうやって誘われるようになったころには、天化はそのとき床の中ではなくて、外で水を汲んだり、洞府に風を入れたりなんだかんだと働いていたはずだった。
コーチは何をしてても楽しそうだったさ。美味しい木の実の在りかもよく知ってたし、虫捕りにいったら素手で何でも捕まえちまうくらいだったし。俺っちもむかしいろんなことに夢中になったさ。でも。
今は走ってることのほうが楽しいのさ。
天化はそれを確認してひとつ納得する。夏の過ごし方は様々で、あれもこれも間違いなくとても楽しくて。そしてそれらを通りすぎて今ここに彼はいる。
天化はにやっと笑って天祥に誘い掛けた。
「それじゃ今日は虫捕りにでも来たことにするさ?」
「うん!」
つい、とヤンマがもう一度天化の視界をかすめて遠くへ去る。天祥が出した手はわずかに届かず、天化は笑って岩場から降り立った。
「ではオレは先に戻る」
今まで黙っていたナタクが言って飛び去る。ナタク兄ちゃん、ありがとう、と繰り返された子どもの声だけがその背を追った。
茂る森へと向かう二人の頭上に空は高い。移ろう時を通りすぎ、子どもは次第に変わっていくのだ。
Don't Copy 禁無断転載
ささやかに夏を惜しんで。海乃苔さまにお礼代わりにお贈りします。
幼いころから移動の過程がお好きであったという方もいらっしゃるかと思いますが、
亭主はそれはだめでした。ドライブが好きになったのは車を運転するようになってから。
ただ決まったコースを往復するだけのプールに何時間も居られるようになったのも、最近の話。
それらは実は私にとって、大人の楽しみです。
どうにか8月中に滑りこみ。みなさまがいい夏を過ごされましたように。
02.08.29 水波 拝
02.09.16 追記。
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なんとさらに海乃苔さまから挿絵をいただいてしまいました!
文章に絵をつけていただくのって、とても、とても嬉しいです。
天化の眼差しがまさに考えていたとおりの大人で、感激。
海乃苔さま、重ね重ねありがとうございました。
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