「雨だのう」
「雨ですねえ」
軍師と参謀は竹簡を繰る手をふと止めて呟き交わした。
しとしとと降る雨は数日来、止む気配がない。
「民には恵みの雨だがのう。武成王らは退屈しきっておるのではないか?」
再び書類に目を落としながら話すともなく太公望は呟く。
楊ゼンも書きものを続けながらくすり、と笑って応じた。
「退屈しきっている人ならそこにもいますよ。
この雨では遊びにも出れませんからね。・・あれ?」
彼は筆を置いて辺りを見まわす。
ほんのつい先ほどまで、山のような書類にぶつぶつと文句を言いながら目を通していた王の姿が、何時の間にか部屋の中から消えていた。
「何とのう。こんな雨でも抜け出す気になるとは」
いっそ感心したように太公望は嘆息する。
「どうしましょう、師叔?誰かを探しに遣らせましょうか?」
「良いわ。どうせ天化か誰かが傍についているであろうし。
この天気ではすぐに諦めて戻って来よう」
書類の山を倍にして迎えてやるわ、と彼は言い足して呵々と笑った。
外では雨が僅かながら勢いを増していた。
*
「王サマ、ホントにこの雨の中出かけるさ?」
3日も4日も外に出ず政に一応いそしんでいた王サマもそろそろ限界だろう、と
天化は踏んでいた。
だから抜け出してきた姫発を咎めるつもりもなかったし、
付き合ってやってもいいと思う。
けれどまあ、一言ぐらいは異議を唱えておくべきだろう。
先刻から雨脚は強くなる一方の様子。
土砂降りとは言わないが、濡れていこう、と言えるような優雅な春雨ではもうないのだ。
「水も滴る綺麗なプリンちゃんがいるかも知れねえだろ?」
「(結局それさ?)・・・・わかったさ」
発は全く頓着しない。
へっ、と笑って言われると天化もそれ以上反論する気をなくしてしまう。
彼はつい、いままで仕事してたのが王サマにしては頑張ったほうさ、と考えてしまうのだった。
それは彼自身も退屈していたせいかもしれない。
二人は街へ繰り出した。
さすがに普段は活気のある豊邑の街も、灰色の空の下、人はまばらだ。
その僅かな人々もみな目深に傘を差し、足早に通りすぎる。
「ちっ、これじゃプリンちゃんの顔が見えねーぜ」
とは言いながら、それでも姫発は「プリンちゃ〜ん」と声をかける。
どれがいかにもプリンちゃんな女性か天化にはちっとも分からないのに。
時には傘を相手に差しかけ、
あるいは水たまりを走りぬけ飛沫を飛ばす。
その、雨などものともしない活力に
いつものことながら天化は感心するというか呆れるというか。
「何よ急いでるのよ濡れるでしょ!」
もっとも戦果もまたいつものことながら散々だ。
バキッ!
「王サマ、そんな濡れた服で抱きついたら殴られるの当たり前さ・・・」
それでも姫発は幸せそうなのだった。
一息ついて、行き付けの賭場や酒場をふらふらと巡った。
こちらは戸外とうってかわって、どこも熱気がこもっている。
「雨なのに、人が多いさね」
意外に思って呟く天化に発は笑う。
「雨だからな」
兵士も農民も大工も、今日は仕事にならねえだろ?
ああ、そうか。
自分が退屈していたのと同じ理由なわけだ。
そんな気づいてみれば当たり前のことにはじめて気がついた天化は、思わず姫発を見つめ直した。
もしかして、俺っちが退屈してたの知っていたから遊びにきたさ?
しかし一瞬浮かんだその考えは、まず間違いなく買いかぶりというものだろう。
天化がいるいないに関わらず、彼は遊びに出ていたに違いない。
それでも「雨の日は遊びの日」と思っていたのなら、
ここ2、3日仕事に向かっていたのは彼にとってかなり辛いことだった訳である。
もちろん、晴れてたって遊びに抜け出す王サマだから、同情する気は起きないのだが。
なんだか姫発が可愛く見えて、天化はこみ上げてきた笑いを慌てて誤魔化そうとした。
「なんだあ?」
周りの男たちと笑いながら喋りつつも姫発は目敏い。
天化の複雑な表情に問いかける。
結局天化も笑うことになった。
「王サマは降っても晴れても元気さね、と思ってさ。」
その答えはまた笑いを呼ぶ。
まあな、と返した姫発は、けれど一瞬考えこんだ。
次の瞬間まっすぐ天化の方を向いた彼は、にやっと口をゆがめて言った。
「天化、ちょっと場所変えようぜ?」
そしてすぐ、悪いな、と男たちに言って席を立つ。
姫発の意図がわからないまま天化は彼を追いかけた。
外はやはり雨が降り続いている。
「どこへ行くのさ?」
聞いても発は答えてくれない。ふふん、と笑うだけだ。
足取りはしっかりとして早く、どうやら街外れの方に向かっている。
いくつめかの角を曲がったとき、天化は息を呑んだ。
数歩進んだところでは、姫発が得意げな顔をして天化を見つめている。
2人の眼前に広がるのは、紫陽花の群落。
青紫の大輪の花が十、二十、いや百、二百。
「結構すげえだろ?」
言いながら姫発は傘を放り出し、花の中に分け入った。
王の上に雨が降りしきる。
「王サマ?濡れるさ」
目は花に釘付けのまま、天化は言う。
姫発の考えは分かるようで分からない。
「そんなの気にしねー。オマエも来いよ」
傘を捨てろ、と姫発は言う。
紫陽花に心を奪われたままの天化はぼんやりとそれに従った。
世界が静かになる。
雨粒が頬に髪に腕に当たって滑る。
水が自分の周りに漂っている。
近づくと分かる紫陽花のひとつひとつの小さな花が愛らしい。
「折角の雨だから、晴れてるときにはできねーことをしねえと損だろ?」
そんなことを姫発は言った。
2人の上に雨は蕭々と降っている。
この身は冷えるのに、
髪から滴り落ちる水滴を払う姫発の所作が鮮やかで、
その表情が鮮やかで、天化は太陽を思った。
晴れたときも、降ったときも、この人はそれぞれに眩しく生きるのだ。
ほんの少し空が明るさを増した気がした。
太陽が顔を出すのも間近に違いない。
スミレさまの素敵な絵にストーリーつけさせていただきました。
どうにかかたちになりましたか?
最初は全くの日常のひとこまだったのです。山も意味も・・・なくてさ。
姫発と掛け合うのは太公望のつもりだったのですが何故かこのように。
半端に長いプロローグはその名残です。
削った方が良いのでしょうが・・愛嬌、ということでお許しください。
望ちゃん好きなのにうまく動いてくれません(天化への愛がまさっているのか?)
ところで、水も滴る、は男性への形容だと亭主思っていたのですが
確認のため辞書を引いたら全く逆でした・・あわわ。
スミレさまがお気を悪くされない出来になっていることを祈ります。
01.06.02. 水波 拝
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