ふと目を覚ますと丁度夜が立ち去ろうとしていた。
部屋の中でも吐く息は白く凍る。窓の外を見ると暗い、けれどどこかに光が零れそうな気配がある。
道徳はひとつ心に頷くと、床を離れて大きく伸びをした。
「天化〜!起きろ〜!」
弟子の部屋の前で二、三度呼ぶと、慌てて動き出した気配がする。
「、と、何さ?コーチ?」
けれど空の色にいつもとは違う時刻だと気づいたらしい。
すぐに気が鎮まった代わりに不審がる声が返ってきた。
「寒稽古に行くのさ!早くしろ」
はあ?!という呟きが聞こえたような聞こえなかったような。そーゆーことは前の日に言うさ、と天化は思ったに違いない。それでも手早く身を整えているその気配に、シャドウボクシングをしながら待つ道徳は満足する。
「おはようさ。お待たせ、コーチ」
部屋から出てきた天化の目は、コーチの思いつきはいつも突然さ、と言っていた。反論しても無駄だと悟ったのはずいぶん前のことになる。崑崙に連れてきてまだ一年にもならないけれど、彼は案外早く道徳のやり方を呑み込んだ。物分りのいい弟子で助かるなあ、と道徳は嘯くのだ。まあ何よりこの弟子は、稽古とか修行とか名の付くものに文句を言ったことはないあたり、分かりやすい思考回路で可愛い。
「おはようっ、天化!」
いつものように道徳は大きな声で天化を迎えた。
体を解しながら洞府の外へ。夜を越えていちばん冷え込むとき、黒い闇の中に青が混じる空。
月はまだはっきりとしているけれど、星の姿はもう見つけられない。
「じゃ、山の上までランニングだっ!」
入念な準備運動は欠かさなかったけれど、道徳はいつもよりすこし速いペースで駆け出した。
空の変化を計りながら。
間に合う、かな?
寒稽古なんて言葉は単にその場の思い付きだったけれど、暗いうちから天化を叩き起こしたのにはちゃんと目的があって。いつになく弟子を急かしてしまったのもそのためで。自分のペースでなら全く問題ない距離も、まだ幼さの残る天化の足だとぎりぎりくらいの時間で。
天化に気付かれているかどうかはわからない。
けれど、そんな感情を外に出してしまっていることが自分では分かる。
俺もまだまだ修行が足りないな、と思う。
それでも。
どうしても、今日、いまから、天化に見てもらいたいと思うから。
二人は呼吸を整えて、黙々と走る。
少しづつ、道徳は速度を上げていく。
まだ、いけるな。弟子の動きを観察しながら走りを調整する師父の目のなかで、天化が表情を緩めた。
足取りも軽く、道徳に肩を並べてくる。
「ねえ、コーチ。なんだか空気がみずみずしいさ。暖かいし。」
思わず道徳は破顔する。
「あっはっは!じゃあもっと速く走れるなっ!」
そうしてさらにペースを上げたから、二人は丁度間に合ったのだ。
不意に遠くに見える山の稜線が黒々と光を吸い込む。
一方で空の山際はまず白く、黄、そして赤と見つめている間に次々色を変えて。
東の空いっぱいにかかっている薄い薄い雲に朝日が照り映える。
空の赤と山の黒、激しい色のせめぎあいは天化から言葉を奪う。
こくん、と唾を飲む音が響いた。
動かしかけた右手を、ぐっと握り締めている。
期待に違わぬ朝焼けに、道徳は一歩引いて弟子を見ていた。
食い入るように空を見ている弟子の内心が、
言葉にならない感嘆と同時に、言い知れぬ不安にも揺れているのを。
いま固く握られている手が、一瞬師父を探そうとしたのを。
美しいだけに怖い。
道徳だってそう思うのだ。
そしてそれだけ十分に美しい朝焼けを、天化のために道徳は選んだ。
遠くの東の空はよく晴れていて、青峯山もまだ晴れていて。けれど雨の近い、湿度の高い日。
できれば薄雲がかかっていればなおさら、紅い光は鮮やかだ。
目を覚ましたときの空気の匂いで、今日は絶好の朝だと思った。
美しければ美しいほど怖い。
それだからこそ、美しい朝を見せたい。
怖いと確かに思っていながら、ひとりで立っていることを選んでいる弟子だから、
眺めるのを止め一歩近づき、道徳はひょいと天化を肩に担ぎ上げた。
「怖いか?」
からかうように言うと思った通り天化は否定する。
「そんなことないさ!」
実際、道徳に触れているともう、不安なんかはどこかの彼方。
師父の頭に手を回して内心に残る美しさだけに浸れば、見る見る空は白んで行き。
「あ」
天化は指を指す。その先に太陽が姿を現した。
白い光に包まれて、二人は笑い交わす。
期待と不安に揺れたあと、来る、未来。
恐ろしいと思うことも、美しいと思うことも、ひとりで強くありたいと思うことも、人と優しくありたいと思うことも。
新しい日を紡ぐためどれも鮮やかに体験してほしいと、師は心から願うのだ。