しらしらと



夜が明けていく。

独りの寝台から起きあがった邑姜は、窓辺に寄った。
闇に包まれ朧げな世界が、少しずつ鮮やかな形を取り始める。
そして東の空に一条の光。
邑姜はそれを強い瞳で見つめると、手早く身支度にかかった。


髪を纏め、衣を着ける。それは何千回と繰り返した動き。
けれど今日は。今日のこれは決して日常ではない。
一つ身を整えるごとに意識を明瞭に引き締めていく。

いつもの衣の上、ひさしぶりに、ほんとうにひさしぶりに着けたのは鎧。

そして最後に残ったもの。
手を伸ばし、その滑らかな肌合いに一瞬のためらい。
止まってそれを抱きしめようとする手を動かして、軽やかに纏ったものは、純白のマント。

赤く大きな「周」の文字を鮮やかに背中に揺らして。
自分の意思ではじめて纏う。
絹の感触に亡き人を想いながら、感情を意識の奥底に注意深く仕舞い込んで、
邑姜は隙なく軍装を整えた。

窓の外にもはや朧な影はない。
世界は清冽な光に身を包んでいる。

東、日の出ずる処、いまこれから進む所。
眩しい光に負けないように暁の空をもう一度見渡したのち、邑姜はそっと部屋を出た。

ごく早朝の張り詰めた空気。
しかし城内の緊張感は刻限に由るのではない。


武王が薨じて後、武王と邑姜の子、誦が成王となった。
とはいえ幼子に政ができるはずはなく、これを周公旦が補佐している。
しかしいま。
幼子を戴く王朝を与しやすしと見たか、紂王の遺児、武庚禄父を中心とする殷の遺臣が蜂起した。
さらに第四子たる旦が摂政を行うに不満であったか、三兄の叔鮮らもこれに呼応して兵を挙げた。
東方から大きな叛乱の軍が近づいている。
革命後わずかな年数で周国は存亡の危機に瀕していたのだった。


カツカツと回廊に響く自分の足音が、ことさらに大きく聞こえる。
一足ごとに、この道を進むと決意を固める。

それはどうしようもない不安の裏返しでもあることは、なにより自分がよく知っていた。
それでも。悔しいことにほかの道は見つけられない。
白い衣を内側からぐっと握り締めると、邑姜は足を速める。
回廊の向こうに男がひとり、立ち尽くしていた。


    *****


痩身で背の高い男は無論、周公旦だった。

間近まで来た邑姜に、彼ははっとした様子で礼をとる。
「太后・・・・小兄さまがお戻りになられたかと思いましたよ。」
努めて軽い口調としているものの、声にも表情にも苦渋が染みていた。
昨夜も眠っていないに違いない。

軍を整え各地の防衛も固めつつ補給線を確保し自ら進軍するために。
国を空ける間も民の暮らしが滞らぬために。
叛乱ののろしが上がった知らせの後、旦はほとんど不眠不休で駆け回っている。

しかしそんなことより辛いのは。
国が民を守れない、目下の事態それそのもの。

ことここに至る前に、何故押し留められなかったのか。
旦が誰よりも自らを責めていると、邑姜は知っている。


周を失わない。
叛乱は鎮圧されねばならない。
民を再び戦禍に巻き込むことなどできない。
国のない、即ち秩序を庇護する存在のない混沌に、国土と人々を放り出せない。

その決意は揺らぐことはないけれど。

すでにいま。迎え撃っても、手を拱いていても人の命は失われる。
進軍の用意とは、すなわち民を死地に連れて行くための用意なのだ。
ことここに至る前に、何故押し留められなかったのか。
悔やんでも悔やみきれることはない。

民を守るために創った国が、民の命を奪っていいはずがないのに。

武王が残した国であるのに。
武王が愛した国であるのに。
武王が傷つきながら創りあげた国であるのに。

それなのに。


周のマントを前にして、旦はいまだ呆然としている。
彼の脳裏に兄の姿がいま映っていることを、邑姜は疑わない。

わたしたちは同じものを見ていると。
そう信じるから前へと踏み込める。
不安はあっても。罪へ続く道だと知ってはいても。

周を失えない。
戦いをできうる限り早く確実に終わらせるために。
悔しいけれど今の自分にはこれ以上の道が見つからないから。

次の自分の一言が、確実に誰かの命を奪うことを自覚しながら、微笑んで邑姜は言った。
「周公旦さま。王とわたくしは東方を討伐にまいります」


赤く鮮やかな「周」の字を、背負えるに足る自分でありたいと。
大きなマントの白さに包まれ邑姜は祈った。


    *****


静かに微笑む邑姜を、周公旦は狼狽した視線で見やった。

「ですが」
そう言いかけて、しかし彼はすぐに言葉を続けることができなかった。

王自らが、そして太后が、先陣に立つのであれば。
おそらく士気はこのうえなく上がる。
白いマントをはためかす姿は、兵たち皆に武王を思い出させるであろうし、
それでなくとも邑姜自らの騎馬姿に勇気づけられる者も多かろう。
羌族の助力さえ期待することができるのだ。
より確実に、より早く、周軍は叛乱軍に勝利することができるだろう。
そしてまた、そうでなければ勝利がおぼつかないのも事実。

これは確かに周公旦にとってしても、今考えうる最良の手段。
少なくとも旦が軍を率いるよりは、 早く叛乱を終息させ、民への被害を小さく留めておけるだろう。
邑姜の出陣を拒む理由は何もない。

だが。

士気を上げるということは、すすんで死んでくれるよう、 兵たちを駆り立てることである。
王の出師が意味するものは、紛れもない、国を挙げての全面戦争。
兵たちをを死地へと積極的に駆り立てる。
国の民、すべてに敵を憎ませる。それは罪。

周公旦のためらいにも、静かな微笑を崩さない。
邑姜はそれを十分承知で言っているのだ。

それは罪。
それは自分が引き受けるつもりでいた罪。

目の前の、兄が愛した女性にそれをさせるのは。

そしてまた、戦場に出れば当然に、命を落とすやも知れぬ。
邑姜と成王を、兄が愛したものを、これ以上失うことは耐えられない。
愛したひとつ、かけがえのない「周」を、失いかけているからこそ。

いずれも感情に過ぎないとは理解している。
合理的に考えて、邑姜の出陣を拒む理由は何もない。
けれど。けれど。


らしくもなく理性と感情の間で逡巡している。
反論も肯定も続けられない旦に邑姜は言った。

「『国が整うまでは、花嫁衣裳は着せてやれないから』と。
武王は私にこれを着せてくださいました。」

想えば切なく崩れるに違いない表情。
人に晒したくはないから邑姜はわずかに背を向ける。
周公旦の目の前で、赤く染め抜いた「周」が揺れた。

彼女はいま周を背負っている。

「どんなに豪華な品をいただくよりも、ずっとずっと嬉しかった。」
いまはこれしかできない、と言いながら。
私がいちばん喜ぶことを、あの人は無意識のうちに知っていた。
あの人と、ともに立って国を背負うと。
それが何より嬉しかったことを。

懐かしく、懐かしく思い出しながら、邑姜は表情を整えた。

「この白は、決して無垢ではありません。
けれど私の、ただひとつの、花嫁衣裳です。」

振り向いて言い切り、邑姜は周公旦を見つめた。
深緑の大きな瞳が彼にも決断を突きつける。

無垢ではない。血に塗れもすることを知っていた。
けれどこの白布こそが嬉しかった。
光も影も引き受けて、周の全てを背負いますから。
そのように先王の后は言っているのだ。
自分と武王はそうやって愛したと。


差し込んできた朝日に、マントがひときわ白く照り映えた。
光に包まれるふたりの脇に、黒い影もまたくっきりと形を落とした。

・・・・・よく、お似合いでいらっしゃいます」
周公旦がこの決断を受け入れるため選んだ言葉は。
いつもお堅い彼にしてはかなり上出来の部類に入るものだった。

花嫁衣裳を褒められて、嬉しくない女はいない。

白無垢に、憧れないわけではないけれど。
けれどそれは今の自分には手の届かないもの。
選んだ手段は血に塗れている。
けれど悔しいことにほかに道は見つからない。

この純白の大布を纏い、あの人はいつも笑っていた。
国が血に塗れていることを、誰よりもよく知っていた人が。


眩しい太陽に向かって邑姜は考えた。
後の世で、誰かが。無垢な道を見つけるだろうか?


....


TENさま・・・ああ素敵な絵とお話のイメージを。
壊したくはない、決して壊したくはないのですが。
いてもたってもいられずについ書いてしまいました、
白いマントの邑姜ちゃん。

書き始めたのは9日でした。まだ、ツインタワーは立っていました。
その瓦解とともに、当然に内容の変更を内面から迫られました。
人類の、3000年を越す歴史は、確かに戦争の歴史でもありましたが。
それは同時に戦争を止める道を探すための歴史でもあると思います。

01.09.16. 水波 拝

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