フジリュー先生にありがとうとお疲れさまを込めまして、サクラテツ対話篇の感想などを。
予告のときから、なんだかものすごくフジリュー先生らしいなあと感じておりました。
それから、きわどい挑戦をされるなあ、と終わりの方は。
さらに感想サイトさんを巡ってから、一体あの連載の裏にどれほどの下準備があるのか恐ろしいとさえ思ったり。
サクラテツ対話篇、好きです。
ギャグと言い切ってよさそうで微妙に言い切れないこの漫画、
改めて確認するまでもなく現実の哲学者の名前、哲学の概念ばっかり出てきます。
哲学、と呼ばれるものと関係付けられない固有名詞は一つもないし(あ、でも缶ジュースQoeとかあったか)、
いかにもどこかの国の大統領を思わせる日本国大統領がデューイであるのも、
フーコーが人を内面からまっとうな人にさせようとするのも、
鏡を覗くナルシストがラカンであるのも故あってのこと。
そしてそんなことが全然わからなくたって笑える。
それがまずはなによりもいいことです。
ジャンプ連載中にはキセノフォンもショーペンハウアーも亭主ちっとも理解しておりません。
いやいまだって理解はしていませんが。
絵を眺めているだけで笑える、その雰囲気がそこにあるだけで笑えるっていうのは、好みもあるんでしょうがやっぱり非常に楽しかったです。
それでも亭主は設定をかなり気にする性質でございます。
コミックスを買ったら当然古い倫理の教科書を引っ張り出したり辞書を引いたりサイトを巡ったり。
実は連載がどんなにつまらなくってもこのコミックスは「買い」だと思ってました。
フジリュー先生が設定で遊んでいらっしゃるのは確かですから、調べてみないと悔しいじゃないですか(笑)。
もちろん、連載時点で楽しかったのでさらに迷うことなく買ったわけです。
期待は裏切られずv一体どこまで意図して人物を造っておられるのやら。
(適当に検索をかけてみたところでは、デューイ、ラカン、フーコーあたりは(この順に)遊ばれ方がわかりやすいようすです。あとの人々は・・・当面お手上げ<おい。)
こういう元ネタ好きな人間にはそれだけでたまらない漫画ですよね、まったく。
んでそして。
読者氏が出てきてさらにハイデガーさんだから。
ああいかにもフジリューだ、と思うとともに、フジリュー先生がんばるなあ大丈夫かなあどきどき、と。
読者氏を本の中に取り込むというのは、使い古されているのに成功率が高いわけではない物語の手法。
はてしない物語という大御所があり、成功したかしていないか微妙なソフィーの世界があり。
ふしぎ遊戯とかアナトゥール星伝とか?(彼女たちは本を手にとっただけでしたっけ?)
覚えていないんですがほかにも色々あるような(←要はこれをありきたりと言う)。
そこで本がただの世界の扉でしかないなら、読者氏が単に異世界人でしかないなら、
使い古されている以上それは失敗でしょう。
読者という立場、本というモノらしい使われ方をしてこその道具立てです。
とはいえ読者氏という立場を存分に利用しようとして引っ張ってくるのはなかなか危険。
何せここには「読者」がいるわけです。
そして読者氏を話に出せば「読者」も読んでいる自分をどうしても意識する。
もともとそうやって「読者」を引き込む、切実さを演出する道具立てですからある程度はいいとしても、
余り読者の存在を強調されると、どうしたって彼のようには物語に介入の出来ない「読者」には、違和感が際立ち引いてしまいます。
それもまたいただけません。
フジリュー、上手いなあと思いましたよ。
よくあるネタをさっくりすっきり手の内で扱いきったなあと。
戻るときにぼろぼろの服で戻した、それだけで非現実を現実に完璧に着地させて、見事でした。
自分の絵と向かい合う、枠線の向こうから見られてる、落ちても死なない(でも痛い)。
落書きルフィは良かったです。読者氏にとってはそこは紙、だから当然描ける。
最強くんがもこもこと膨れ上がってくるとき、あ、これこそ「物語」だと思いましたね。
紙の上にただ書いたものに何かが肉付けされる。
その何か、迫力とか魅力とか愛情とか臨場感とかキャラが勝手に動き出すとかそういう何か。
分析できそうでできない、それを生み出す技術はあるだろうけどそれだけじゃない、面白いものとつまらないものを分ける何か。
そして「どうせこれは漫画だろ?」
「読者」のことよくわかってらっしゃるわ、まったく。
こちらが必ずしもそうとばかりも思っていないことも含めてのことです。
あのあたり、可愛いアリスちゃんに共感できるようになってますもんね。
「まぁ死ぬときは死ぬ!それはどんな世界でも一緒ゾヨ!」っていうのも「町を壊しても半殺しで済んだじゃないか!!」っていうのもどちらもほんとうで、深〜く納得。
ちゃんと「どうせ漫画」側にもフォローが入っているのが絶妙です。だってそれもほんとだから。
コミックスで読み返して楽しかったのは「ちくしょう・・なんで漫画の中の一般人がケガしてんだよ・・」って、どうやらあれだけのことをしてもケガをさせるつもりじゃなかったらしい読者氏の善良さと未熟さ。
気づけよ!って気づいたんだからいいんだけどさ。
やっぱりだからフジリュー上手いって思うんです、こういうところで。
ついでにきっと「読者」がいつ打ち切りになるんだろうとどきどきはらはらしていることも承知で遊んでいらっしゃるのですよね。
だいたいその前から「第10話突破おめでとう記念!!」ですから・・この確信犯。
読者氏ネタは最後の手段と思った人は山といますよね?幾らなんでも亭主一人ってことはないと思いたい。
フジリューに手玉に取られるのって快感です、実は。
で、さらにハイデガーさん。
漫画世界内存在。
これは12.50話の扉、漫画神さまの足元に書かれている言葉“In-der-Welt-sein”。
彼は「どうやって存在するのだろう」ではなく「存在ってなんだろう」を考えた人です。
存在って何だろうと問うことの出来る人間というものは、存在っていうものを知っている。
で、人は問う。何かを作る。道具を使う。そんなふうに行為を通して世界と関わる。いつもいつも。
それから、世界はいつもそういうふうに人間に関わられている道具たち。
そんなふうな人間が、「世界内存在」。
人間たちはほんとうはいつもいつもそうやって世界に関わりつづけるすごいものたち。
でもうっかりそのことを忘れていたりするけど。
漫画世界内存在も、きっとそのことを忘れていたりするのでしょう。
自分が中に入った白い原稿用紙だったものが世界であることを。
テツやフラトは漫画のわく線のその中に。
中にいることが重要なわけじゃない。世界‐内‐存在はそういう意味じゃない。
自分が内に入って行為して関わった、そこが世界、そんなふうな主人公が漫画世界内存在。たぶん。
ハイデガーさんの言うのは「人間ってすごいんだ」と、そういうことだったと解釈しています。
主人公ってのはすごいんだ。
そんなふうに疾風怒濤の物語を読んでみたりしております。
要は思いっ切り好き勝手に読んでいるということですが。
フジリュー先生の真意奈辺にありやは存じません。
ただこういった、哲学、人物、つまりは「読者」の属する現実の世界に同じく属する小道具を、漫画世界で展開すれば、現実の世界での「読者」の知識や感情で漫画世界の味わわれ方はおそろしくさまざまになるでしょう。
何ひとつ現実と関連付けずにも読めるし楽しいし。
正確な哲学の知識をお持ちの方もいれば、亭主のように適当であることを喜んでいる人もいるでしょうし。
その楽しまれ方の広い幅の存在を、フジリュー先生はご承知だと思うのです。
フジリュー先生個人の楽しみ方と違い得ることを含めて。
(こういう設定は楽しいに違いない・・ビジネスとしては辛いとも思うけど、本質的には。)
そう、これはフジリュー先生の意図と違い得るのです。
「読者」の持つ知識と態度はばらばらなのですから。
現実が物語の読まれ方を規定する。
「読者」は読者氏のように物語に関与することは決してできません。
けれど違った方法で、ある意味では読者氏よりも強く強くこの物語に関わるのです。
物語を読み、そこにあるものに意味を与え、その全体を解釈する。
「読者」が現実に持つ知識と態度によって、意味は与えられ、物語は解釈される。
物語は現実によって侵略される。
物語は侵略されまくっています。ほんとうは、サクラテツに限らずに。
最強の侵略者は確かに「読者」氏だと「読者」はみんなほんとうは知っているのでしょう。
などなどと面白かった漫画でした。よくできた漫画だと思います。
そしてフラトは可愛かった!
「つぎに書く漫画はたぶんジャンプっぽい」とのことですが、
フジリュー先生の「ジャンプっぽい」ってのはどんなものなんでしょう(笑)。
のんびり、楽しみにしております。
それまでにはもう少し、サクラテツに出てきた哲学を楽しんでおくことにいたしましょう。
以前日記にも書きましたが、哲学解説込みの感想サイトは迷宮物語さまがいちばんだと思います。
ハイデガー哲学についてちょっとかじってみたい方はこちら↓など。
office-ebara > 哲学の旅 > ハイデガーの哲学
勝手に哲学史入門 > 第5部:現代哲学2 ハイデガー
それから学生時代の倫理の教科書とか現代哲学のノートとか眺めました。ところどころミミズがのたくっておりました(笑)。