そのひとが来るのはだいたい午後も遅くなってからと決まっていた。
「やあ、楊ゼン。玉鼎いる?」
「おはようございます、太乙さま」
うら若い道士への気さくな呼びかけに、対するこれは無論皮肉だ。
先刻まで昼寝してたってどうして分かっちゃうのかな、と太乙がぼそぼそ呟くのには答えずに、
楊ゼンはいつものごとく彼を客間へと案内した。
礼儀正しく、その態度にはかけらも瑕なく。
そして師に来客を告げ、台所へ下がり湯を沸かす。
確か小豆を沈ませた羊羹を作り置いてあったはず。
棚から出して幾分大きめに切り分けたころ湯がたぎる。
しばらく沸かせたあと湯冷ましに上げ、充分置いてふんわり甘い茶を入れた。
その茶菓の塩梅はどうせ食事もとらずに来ている客人のため。
茶の水色と薫りに満足し、優美な少年はこれを持ち出す。
そうしたら客間の卓にはもう、太乙が持って来たらしい設計図やらなにやらが一面に広がっていた。
「でさ、今度の宝貝なんだけど」
科学オタクは玉鼎に向かいその構想を話し計算式を羅列している。
恐らくは明け方までラボで試作など繰り返していたあと眠りこけ、
目を覚ましたら話さないではいられずにそのままやって来たというところ。
夢見がちでかつ熱のこもったいつものさま。
机の上の乱雑さに内心溜息をつきながら、
少年は目下話題に上がっていない書類を注意深く判断し揃えて場所を空けた。
設計図を見るにこんど太乙が作ろうとしているのは槍、らしい。
立て板に水の客人の前に、隙のない所作で菓子と煎茶が供される。
これまた非の打ち所がないふくよかな薫りを聞きながら、けれど玉鼎だけは知る。
二人のとき入れられる茶に比べれば、ひとつふたつ調味料が足りないようだ、と。
楊ゼンには師の心は読めない。いや彼はいまそれどころでない。
彼はいま話題の宝貝は槍
「らしい」、という自分の理解の不確かさに臍を噛んでいたりするのだ。
実のところ彼は宝貝作りの手ほどきを受けはじめたばかりなのだから無理もない。
まして目の前で展開されているのは十二仙でも最高の匠が思いつくままに為す話。
が、幾らそれは無理もないと例えば師匠が言ってくれようと、
聞こえる言葉は理解しないと彼自身の気が済まない。
だから楊ゼンは働きながら、思考も真剣にフル回転させている。
それと悟られぬよう茶を供す体の動きは正確に整えながら。
そしてそれでも完全には理解できない。行き着く感情は悔しさ、だ。
悔しいどころか自分が微かに苛ついていることも彼は知らないわけではない。
外に出しているつもりはないけれど。
なにか足りないのも当然のこと。
足りない調味料はゆとりとか共感とか寛ぎとかいうもてなし。
*
新しい構想を語るのに夢中で若い道士の姿など目に映してさえいなかった太乙にも
甘い薫りが届いたようだ。
不意に彼は口を閉ざして茶碗に手を伸ばす。
屈託のない声が零れる。
「あ、おいしい」
少年の内心など彼は知らない。
ただ太乙は目の前のお茶を美味しく思う。
くいと碗を空けた後、照れ笑いを浮かべて口にする。
「お代わり、もらえるかな?」
だってうっかり飲み干してしまったからそれでは折角のお菓子が頂けない。
急に太乙は自分がお腹を空かせていることも思い出すのだ。
その屈託のなさ、その人の好さ。
いっそ隙だらけとも言える太乙の一挙手一投足。
僕が出す茶と菓子なのだから美味しくて当然ですが。
決して言いはしないことをでも確かに楊ゼンは感じている。
褒めてもらって嬉しいと思えてもおかしくはないのに。
どうして太乙の前では反感が先に立つのだろう。
玉鼎が一口茶を啜って
「ああ、美味いな」 と言うのはただただ嬉しく思えるというのに。
その違いが何に由来するか知らぬまま、楊ゼンは客の注文に応えるべく茶器を引く。
やっぱり非の打ち所のない所作で。
完璧主義で負けず嫌いなその彼の、それだからこそ足りないもの。
「負けず嫌い」 の対象外の、一人きりの師匠にだけは見えるもの。
すっかり相手を認めてしまえば反感など抱かずに済むのに。
敵わないと思ってしまえば悔しいことなどありえないのに。
ゆったりとくつろいで心からもてなすことが出来るだろうに。
完璧なもてなしのその欠落を、玉鼎は愛しく愛しく思う。
目の前の人に悔しくて苛々として落ち着かない。
それは完璧でなめらかな丸いたまごの内から外へと雛がみずから入れたひび。
外へと大人へと向かう瑕。
そしてそれは雛に認められた師が、それ故にどうしても与えることのできない不足だ。
完璧を教えることは師の手の内に。
宝貝作りも茶の入れ方も、欠けるところなく一通り教えるつもりは当然あって。
この優秀な弟子がそれを完璧に身につけるのも確実で。
渋みも甘味も申し分ない茶を飲みながら、玉鼎は考える。
でもいまの必要でいとおしい苛立ちは、そのプロセスとは別のところに。
いまはまだ及ばない。確かに及ばない。雛がそれを認めざるを得ない他人。
けれどいつまでも及ばないつもりは断固としてない。雛がそれを認めない他人。
楊ゼンは彼を超えようとするだろう。
けれど見た目とは裏腹に、彼は決して易々とは超えられない。
玉鼎は重々それを知っている。
二重にも三重にも得難い存在、たまごの瑕のその理由。
愛弟子に不足をもたらす友人に、甘い師匠は感謝した。
「おまえの分も入れて来て、ここに同席するといい」
台所へ下がる楊ゼンに玉鼎は言う。
やはり師匠はどうしても、上へ上へと望むのだった。