吸いこまれそうなほどに高く青く広がる空。
まさに天高く、馬肥ゆるとき。
陽射しはまだまだ確かに強く暑いにもかかわらず、
吹く風はひとかけらのためらいもなく、すでに季節が変わったことを告げていた。
屋根の下で、書類に埋まって、そして人の只中で一夏を過ごすのは久しぶり。
忙しいけれど充実した日々に、微塵も不満はない。
世界が私を必要としていて、私が世界を必要としているのだから。
けれど今日だけは。
開け放した窓から執務室に入り込んできた風が、しきりに騒ぐので。
「少しだけ、失礼します」
と、机の上を山積みにしたまま午後の政を抜けてきた。
「小兄さまの悪癖がうつられましたでしょうか」
と軽口をたたきながらも、周公旦は笑って許してくれたのだった。
武王は先から席に着いてはいなかったし。
執務室を出るや否や、廊下の外れ、中庭に大きく開いた窓へと駆け寄った。
まず目に飛び込むのは真っ白な雲。空の青さを引き立たせている。
向かいの屋根の赤さと相俟って、胸が痛いほど美しい青。
身を乗り出してみる。
窓枠に腰かけ上向くと、期待を裏切らない空の高さがそこにはあった。
窓の外に広がる空は、当然のこと草原で見るものほどに広くはないが。
有り難いことに青さと高さにおいては変わりなかったのだ。
けれど、いかんせん不安定な態勢は長く保たない。
そして決して行儀良いとは言えない格好。
苦笑して体を戻すと、ふわっと風が頬を撫でた。
「いい風だわ」
邑姜は呟くと、身を翻して草の揺れる中庭へと降りていく。
かつてはたいそう華麗なものであったであろう、広い庭。
けれど出来たばかりの王朝は、まだここまでは手が回らない。
そのおかげと言うべきか、露草に撫子、水引草に吾亦紅と野草が茂り、
小さな花をつけながら揃って風に揺れていた。
安定を取り戻したとはまだまだ言えない国の政。
この時期に、周朝では新参の自分が異質の族だと印象付けるは得策でない。
いましばし草原には帰れない。いや、帰らない。放っておけない人もいることだし。
高い空、涼しい風、揺れる草。
物心ついたときから羊と共にいた私にとってかけがえのない存在。
捨てる覚悟はとうにある。今日までだってそうしてきたのだ。
ただ今日は懐かしみたい、それだけだ。
花野に腰を下ろして天を見上げる。
青い青い空の向こうに太陽が白く小さく光っていた。
眩しいわ、と思いながら目が離せない。
四角い空はけれどどれほど眺めてもその奥行きは限りなく、飽きなかった。
毎年同じであるような、けれど毎年どこかが新しいような、空。
*
不意に声がかけられた。
「おまえもサボりか?珍しいな、邑姜」
「貴方こそ、こんなところで何をなさっているのです?」
今日の自分が言えることではない、と知っていながらそれでも返す。
相手は笑って、自分の横に腰を下ろした。
「最初は空見てたんだけどな。途中からはおまえを見てた」
再び視線を空へと戻しかけていた私は、思わず相手の顔を見返す。
武王の眼はからかいを含んで楽しげだった。
「おまえでも窓によじ登ったり、すんのな」
「見てらっしゃったんですか」
ほかに言葉が見つからない。
自分の頬は少し火照っているに違いない、と知覚する。
「まあな。おまえが降りてきたとき、俺に気づいてるんだとばっかり思ってたのにさ。
わき目もくれず空ばっかり見てやがるから、なんか悔しくっておまえを見てた。」
「そうですか」
もうすこし気の利いた返答があるだろう、と思いながら。
視線は空をさまよわせ、そこで邑姜は沈黙する。
傍らで姫発は伸びをして寝転がった。
そう、決して沈黙は居心地の悪いものではないのだ。
ふたりして空を眺めたひとときの後、起きあがった彼はこちらを向いた。
その視線は何故か、私を落ち着かなくさせる。
寝転がっているときも、この人は私と空とを等分に見ていたようで。
目を向けていないのに、人はどうやってか視線を感じとるのだ。
「なあ。」
「はい?」
言葉に合わせて、私も真っ直ぐに武王を見つめ返した。
「羌族に、帰りたいか?」
唐突で、あまりにも直截な問い。
私は即座に言葉を継げなかった。問われたという事実に驚いて。
空を見ることが草原に思いを馳せることだと、気づかれたつもりはなかったのに。
そして一瞬間を置いて、はっきりした声で返答する。
「帰りません」
捨てる覚悟はとうにある。声に出すのはこれしかない。
けれどこれ、正しく問いの答えにはなっていないということを、
この人は果たして気づくだろうか。
私の声を聴いた武王は、ほっとしたように一息ついた。
「そう、か。変なこと聞いて、悪かったな。」
声の響きから、この人は私の答えを先刻承知していたと知る。
ほっとしてくれたことが嬉しいと思うのは、私の素直な感情だ。
けれどまたその声は、寂しがっているようにも聞こえた。
どうなさったのです、と尋ねようかと逡巡したとき。それは表情に出たのだろう、
武王は苦笑しながら言葉を継いだ。
「おまえが見てる空が、あんまり高ぇからさ。
向こうには、おまえの族と。もっと向こうに仙道のヤツらの住んでる島があるんだろうなって、
思っちまったんだよ。」
ああ。なるほど、寂しいのですね。私と逆に。
捨てる者があれば、捨てられる者もあり。どちらも寂しいと呻きをあげる。
柄になく、思わず踏み込んでしまった。
「弟君に、帰ってきてほしいのですか」
「まあ、な。雷震子だけじゃなくてほかのヤツらにも会いたいけどな。
武吉っちゃんたちが来たときの話じゃあ、向こうからの行き来は出来るんだろ?」
予想どおりの答えが返る。
帰ってきてほしい。会いたい。その願いは言葉にするまでもなく知っている。
羌の族にも、私の帰りを願ってくれる人はいるだろう。
けれど私は帰らない。
そして武王が私の答えを知っていたように、
彼はまた、仙道の皆が帰ってくることのないことも知っているだろう。
互いに承知の言葉たちを前に考える。
それでも何かを言いたいと思ったからこそ、答えのわかりきっている問いを立てたのだから。
「何かを捨てるということは、何かを得たということですから。
そしてまた、何かを得るということは、何かを捨てるということですから。
私は帰りませんし、弟君も皆さんも帰ってはいらっしゃらないでしょうね。
決して捨てたいわけではありませんが。
捨てなければならない、いえ、何かを得たいという願いを、
残される方にわかって頂けたなら。
泣きたくなるほどに有り難いですわ」
残した人も離れたものも、捨ててはいても、いつも気になるものだから。
おかしなことに、話しながら私が涙を零しかねないところだった。
困ったように、けれど優しく武王は私を引き寄せた。
温もりを感じつつ、呼吸を整え声を整え、もう一度向き直ってささやく。
「残した人も離れたものも、捨ててはいても、いつも気になるものだから。
帰ってきてほしいと願われることも、叶わなくとも常に嬉しいものですよ。」
帰りたいか、という問いに対する答えはどうしようもなくYes.
けれど帰らない。
それでも決して忘れない。
「そうだな」
武王の呟きが、風に乗って流れていった。
ふたりで眺める青空は、やはり限りなく高く。
草原にも街にもつながって、懐かしくも新しい、今年の秋の空なのだった。
白露までにはと思っていたのですが、遅れました。
雷ちゃんと邑姜ちゃんが対でございます。
亭主の中では必然でしたが、話に反映させるのはなかなか。
そして姫発と邑姜ですが、亭主にも、本人らにも君臣か友人か恋人か謎。
こんな風だろう、という感触は揺るがないのですが。