「おぬしも食わぬか?」
ついうっかりと、僕はその甘い果実を受け取ってしまった。
*
日中の騒がしさは闇に消え、月明かりのなかを風が渡る。
灯火の下でいまだ働きつづけている者もわずかになった。
昼の明るい光の中でひがな一日ともに働いてはいても、仕事と人に囲まれて
指示や報告でない会話は交わしてもいないし交わすことも望めない。
だから僕は夜が更けるのを待っていたのだ。
太公望師叔はここのところ珍しくも忙しく働いている。
ばたばたと走り回っては資料を集め、片っ端から読み捨てていく。
その一方で先の戦いの被害を調査し善後策を講じる。
犠牲者と遺族の生計の道を整え、また、城壁の再建と腐敗した土壌の改良。
東南北の諸侯の情勢も確認しつつ。
魔家四将を退けたいま、はじめてほんとうに戦場となったこの地の空気は昂ぶっていて、一種独特の活気に師叔の忙しさも目立たない。それはまるで当然のことにさえ見えるのだ。師叔は戦いの傷もいまだ癒え切っていないはずなのだが。
もちろんこの人は必要があれば幾らでも働くことのできる人だし、
忙しさも案外嫌いではないに違いない。
とるべき戦術は当面のところ明確で、即ち軍事拠点と生活都市を切り離すこと。
その費用対効果を最大にするべく計らうのはパズルを解くのとよく似ている。
周公旦、武成王、南将軍をはじめ適材を適所に使うのも巧みだ。
戦うために下山してそのまま政の戦力にもなっているらしい僕も、
朝から晩までなんだかんだとこの人に使われながら不満を抱く気にもならないのがいっそ不思議だけれども事実。
はじめて間近で見るこの人の平時の手腕にも僕はきっと満足しているのだろう。
けれど、そんなことは些細なことで、それよりも。
光のなかにこそ隠されているものが気になって、だから僕は夜が更けるのを待っていたのだ。
涼しい夜風が窓を揺らした。
かたと鳴ったその音に豊邑街区の復興計画書から目を上げると、
先刻まで向かいの机で図面を書き散らしていた師叔の姿は消えていた。
僕も木簡を置き立ち上がる。
こんなとき師叔がどこで何をしているのか、
あまり大声で言えることではないけどはっきりと予想がついていた。
あの人は間違いなく一人でいるということも。
待っていた夜は来たのだ。
回廊に出てすっと蝶にでも変化する。
人に見咎められないものなら何でもよかったのだけれど。
ふわりと舞って羽を動かせば、夜の空気は濃く瑞々しい生気に満ちていて、
崑崙山の気とは違うと改めて思う。
音もなく空を滑り、甘い香りが漂うところへと向かう。
それは充分に熟した桃の香りだ。
そうして僕は目指すものを見つけそこに止まった。
食糧倉庫からこそっと出てきた太公望師叔が抱える桃の実のひとつに。
「やめぬか、楊ゼン」
頭上から降る声に、僕は変化を解く。ひとまず素直に頭を下げる。
「すみません、師叔」
それからこの人を真っ直ぐ見ながら微笑みかけて聞いてみた。
「すぐに僕だとおわかりでしたか」
当たり前であろう、などとこちらを見ずに呟く師叔はぶつくさと歯切れが悪い。
さすがにばつの悪さを感じているらしい。
まあ桃泥棒なんて決して褒められたことではないですからねと声には出さず、
この人のそういう人のよさは悪くないと思っていたりする。
いまわざわざやって来たのはそのような既知の事実を確認するためではないのだけれど。
さて、でも。どこから手をつければいいのだろうか。
僕ははっきりと目的を持って来たはずだった。
太公望師叔に確かめたいことがあるのだ。
でもどうやって?
この人を目の前にするとその術を持たない自分にふと気づく。
確かめるのが怖いのだろうか。
確かめたい師叔の答えが怖いのか、確かめようとする僕の不遜さが怖いのか。
そんなこともわからない。
忙しい昼の光の中にあなたが伏せているものを、
言葉にしてつかまえたいというだけですが。
さてどうやって。
内心とはうらはらに、会話は続く。
「傷の具合はもうよろしいのですか」
不恰好な沈黙は避けたいと、我知らぬうちに言葉をつないでいたらしい。
心配しているのは嘘ではないのだ。最後にあなたを無理させた張本人が僕ですからね。
それはそれなりの僕の真実だったのに。
「それなり」でしかないことはやっぱりこの人に見抜かれる。
僕の問いには答えず師叔はふふん、と笑ってこちらを向いた。
きっとなにか軽口を返すつもりでくるりと巡らせた視線をすこし上げ、僕の顔に届かせる。
と、そこで太公望師叔は容を改めた。
「咎めに来たのかと思っておったが、違うのだな。
おぬしでも本題に入れずに逡巡することがあるのだのう」
低めた声で、でも今度ははっきりと紡がれる師叔の言葉。改まった口調。
嫌だな、僕はいまそんなあからさまな表情をしていますか?
とはいえそんな自身の屈折のために好機を逃している余裕はやはり僕にはない。
無論しかめっつらで桃泥棒を咎めるようなそんな余裕もあるはずがない。
「ええ、太公望師叔。あなたにもそういうことがあるのと同じに」
語られた言葉に便乗することでのみようやく一歩を踏み込んで。
返って来たのは静寂のひとときだった。
言葉のないまま見つめあう僕たちの周りには熟した桃の香気が立ちこめている。
答えを得ようと思うからには外せない視線を絡ませたまま、でもねっとりと重い沈黙は甘かった。
それが身を切るような痛みでないことに安堵する。
もういいや、答えなど、と思ってしまうほど。
なのに視線はやはり外せない。ややあって、太公望師叔ははっきりと頷いた。
答を聞けばその答えは知っていた。
片っ端からさくさくと仕事を片付けるこの人も、迷うことから解放されてはいないのだと。
いかに人間が自らの意志で戦いを選ぶとしても、それでも気楽に人を巻き込めるはずがない。
それで僕は?
知っていた答えを聞いてどうしようというのだろう。
頷いた師叔にこんど言葉を返すのは僕の番のはずだった。
言いたいことは山とあるようでいながら形にならなかった。
気楽にいくとしましょうよ、と僕は言って差し上げられない。
それは周公旦や武成王など人の言葉。それを僕は断じて言えない。
それは事実。受け入れるしかないというのに。
それは甘すぎる甘い言葉。仮に僕が申し上げても師叔は怒りこそすれ楽にはなれない。
結局僕は追い詰めることしか出来ない。
そして僕は太公望師叔を追い詰めたいわけではないのだ。
ではなぜ何を僕は確かめたかったのか。
言葉を探し、見つけられない。
やはり逡巡する僕を、師叔は見ておられたのかいないのか。
頷いた師叔はそのまま傍らの欄干に腰をかけた。
それにしたがって僕が隣に座るのを待って、師叔は膝に乗せた桃をひとつ差し出した。
「おぬしも食わぬか?」
*
ついうっかりとそれを受け取ってしまった僕は、掌中の甘い果実に戸惑う。
周公旦なら受け取る前にハリセンで師叔の頭を3つ4つはたいていることだろう。
まったく桃泥棒など決して褒められたことではないのだ。
たしなめて桃は元へ返すのが正しいと分かってはいながら、なぜか僕は果実を手放せずに迷った。
両手で包み込んだそれをすこし持ち上げて眺めてみる。
赤と薄く黄色がかった白の美しい混合、やわらかな和毛の肌触り。
すこし力を込めれば潰れてしまうだろう頼りない果実の、はっきりと甘美な香りの主張。
本来自分が手にすべきでない甘味の誘惑。
太公望師叔は面白そうにじっと僕を見つめている。
面白そうに?
いや、確かに面白そうに、と僕はそう見たのだが。
この人が面白がっていることは間違いなかった。
だからといってこの実を笑ってこの人に投げ返せるかといえば決してそんなことは出来なかった。
手の内の果実は重い。
ねっとりと重く、そして甘い沈黙。それは決して不快なものではない。けれど。
迷いと罪が纏わりつくような濃い香り。それは確かにここにあるもの。
それらすべてを師叔は、面白がってさえいる、決して不快なものではない、
けれど。
隣のひととの距離はこんなに近くて、そこには甘く濃密な空気が漂っているのに。
手の内の果実は重い。
だから僕はこの実を手放せない。
甘いだけでないはずの重いなにかをつかまえるべく。
僕は果実から視線を外し隣のひとへと向き直った。
僕の視線に僅かだけたじろいたこの人の、その沈黙の重さの中に僕が目を凝らして見たものは、孤独。
自然と手はその皮を剥いていた。
露わになった白い肌に齧りつく。
つい一瞬前までは口をつけることなど思いもよらなかったのに。
汁気たっぷりの桃はこの上なく甘かった。
桃が美味いのか、盗んだものだから美味いのか、しばし僕は考えていた。
「何と、おぬしがのう。ほんとうに食うとは思わなんだわ」
沈黙が霧散する。
笑みを含んだ師叔の声は、呆れたような調子をとっていた。
言いながら大きな口で果実にかぶりつく。
やはり桃はうまいのう、と言ってかっかと笑った。
誰がそそのかしたんですか、と口にはしないでじろりと師叔を睨んでから、
さっさと手の内の桃ひとつを食べ切って。
それから手拭を回そうとしたときにはこの人はもう3個目を食べ終えて道服で手を拭いていた。
顔をしかめる僕にやっぱり太公望師叔は笑う。
明るく笑うそのなかに僕はも一度目を凝らしてみたのだが、孤独の影はどこへ行ったかわからなかった。
それは無くなったのか。
隠すのが上手くなられたのか。
こういうことではこの人は決して信用できないから判断に困る。
それでも僕はみずみずしい果実を味わっているうちに、
さっき自分が確かめて言いたかったことだけはつかまえたのだ。
知恵の木の実を食べたいと思うのも美味しいと感じるのも僕自身の心の動きだということ。
師叔。
人を戦いに巻き込むことに、迷われるのも呵責を感じられるのも尤もですが。
いつでも僕は共犯でいますから。
目の前にいるのは行動で示したことを言葉に直す必要のない相手。
だから伝わったはずのそれへの答えが知りたくて目を凝らすのに、底の知れないこの人は答えの影すら見せてくれない。
仕方ない。伝えるだけのことは伝えたのだ。
僕は立ち上がり仕事に戻ることにする。
「師叔もさっさと戻ってください。あなたでなければ決裁できない書類が机の上に山積みです。
それから周公旦がそろそろ桃泥棒の存在に気がつくと思いますから、小言は覚悟しておかれたほうがよろしいですよ」
「な、なに? 楊ゼン、おぬしまさか告げ口するつもりか?
だいたいおぬしも共犯であろうが」
「告げ口などと人聞きの悪い。僕は単に時間の問題ですと申し上げているだけですよ。
でも周公旦が気がつくころには僕はもう要塞の建設に出かけているでしょう?」
むう。
唸り声にくすっと笑いがこみあげる。
「ですからお小言は一人で引き受けてくださいね」
そう言って立ち去ろうとしたとき、思い出したように慌てた師叔の声が僕を呼びとめた。
「あ、ええと、ちょっと待て、楊ゼン。済まぬ、そういえばまだちゃんと聞いてはいなかったが」
「はい?」
「おぬししばらく人界に居てくれるのか?要塞の建設にも行ってくれるということか?
というかその前に要塞を建てることなどわしはまだ誰にも話しておらぬぞ?」
何をいまさらこの人は。
もうすっかりあなたの頭の中ではそういうことになっていたでしょうに。
あなたの心の中はわかりにくいですけどね、とるべき戦術は僕にだってわかりますよ。
呆れて僕は意地悪な答えを返す。
「帰ってもよろしいのですか、太公望師叔?」
有り難いことに、か、師叔はうろたえてくださったようで。
「あ、いや、よくない。悪かった、楊ゼン、しばらくこちらに居てくれるな?」
その言葉を言わせて満足している自分は趣味が悪いなと思うけれど、
なかなか本音を見せてくれないあなたにこの程度の意趣返しは許されると思いますね。
それでもちゃんと頷いて答える。
「ええ。こんどの下山は一時で済まないことは師匠もご承知ですし。
この先はここであなたのお役に立ちますよ」
師叔がふう、と息をついたのを感じる。
それを受けてこんどこそ立ち去ろうとした僕の背中にもういちど声が掛けられた。
「帰るでないぞ、楊ゼン。何しろおぬしはかけがえのない共犯者だからのう」
童顔に相応しくよく通る声。そして真摯な。
僕は思わず振り返り太公望師叔の顔を見つめる。
眩しいこの人の中にもう一度、孤独の影が見えないことを確かめる。
それがあなたの僕への答えだと、受け取ってよろしいのですね?
もう言葉を返す必要はなく再び歩き出しながら、僕はまいったなあ、と心の中だけでうめく。
まったくもってこのひとは人を使うのが上手すぎるのだ。
この人の差し出す果実は甘い。
ええいつでも僕は共犯でいますよと、いまだあたりに漂う桃の香りに僕は呟いた。
カウンタ3456を踏んでくださった多岐島さまに。
いつもおいでくださってありがとうございます。
そしてお待たせいたしました(汗)。
お題は「師叔と楊ゼンが司令官とその補佐という一線を超えるシチュエーション」
越えているつもりなんですけど・・・・つもり、なんですけど・・・
せめて楊ゼンさんの見ていたものが書けていたらいいのですけど・・・
知恵の木のfruitはappleとは書いてないという生半可な知識を悪用(?)してますが、
でももちろん、peachってことはないようです。
美しく整った文章を書かれる多岐島さまに捧げるにはなんとも拙く恐縮ですが、心をこめて。
どうにも長くなってしまった文章をここまで読んでくださったみなさまにも感謝いたします。
02.08.25 水波 拝