つい先刻まで雨が降り続いていた。
いま、鈍色の空は彼方から茜を含んだ紫色に染めかえられようとしている。
窓の外を見上げた楊ゼンは仕事の手を止めた。
席を立ち、窓を開ける。
むっと湿った風が流れ込んでくる。
それは身に纏いつき不快でもあったが、呆れるほど生気に溢れたものとも思われた。
まだ少し陽は残っているけれど。
今日の仕事は早々に仕舞うことにする。
そうして彼は、湯を遣い、衣服を改め、髪を整えて外に出た。
既に空から太陽の名残は消え去っている。けれど、全くの闇ではない。
紺色が闇色へと移り変わっていくにはもうひととき。
その時間の長さが、蓬莱島にも夏の訪れを知らせる。
いや、相変わらず纏いつく風の暑さは、もう、とうに夏だと声高に主張しているのか。
別に夏が嫌いだと言うわけではないんだけど。
折角髪も洗ったのになあ。
幾らも歩かぬうちに汗ばんだ彼はひとりごつ。
そうは言ってもこんなときの行水は幼い頃からの習いだから。
どうせ汗に濡れると分かっていても決して止めないだろう自分を知っている。
蛙がにぎやかに啼いている。
不意に涼しい風が吹いた。
川面を通る風。
ああ。
それを予想して来ていたにもかかわらず、彼の口からは思わず溜息が漏れた。
蛍だ。
あちらにひとつ、こちらにふたつ、その向こうには五つ六つとかたまって、
ちいさな光がきらめいている。
それはまた水面に映り、ゆらゆらと頼りなげに、
けれどけして消えることなくかがやいている。
楊ゼンは土手に座った。
草には雨粒が残っていたけれど構わなかった。
きらめく光から目が離せない。
このかそけきものたちに亡くした人の魂を重ねる。
それはものすごくありきたりな発想で、ありきたりなだけに心から離れない。
魂魄がいくつもいくつも目の前を漂っている。
蛍を見れはそんな物思いにふけってしまうこと分かっていたんだけど。
彼は自分に呟く。
蛍の思い出は師匠の思い出と重なるから、と言い訳をしてみる。
幼い頃は毎夏玉鼎と蛍を眺めた。
そして言い訳をしている自分に苦笑する。
そうしたら、目の前の蛍も苦笑した気がした。
思い出にふけるのも良いではないか。
師の声が聞こえた。
彼は目を閉じた。
自分は間違いなく知っている。
蛍が苦笑するのは気のせい。声が聞こえるのも気の迷い。
けれど自分はもうひとつ知っている。
もしも師匠がここにいたら、きっと言う。思い出にふけるのも良いではないか、と。
蛍は声を立てず、ただゆらめいている。
にぎわしいのは蛙の声。
師が懐かしい。
けれどそれは会いたい、話したいとは少し違う。
言葉を掛けてもらわなくてもいい。笑い掛けてくれなくてもいい。
目の前でかたちをとらずとも、自分は知っているから。
自分がありのまま、このうえなく愛されたこと。
掛けてくれる言葉も、向けてくれる表情も、だから分かるから。
そしてそれでも、師が懐かしい。
次々に胸に浮かぶ思い出に、彼はひととき周りを忘れて耽った。
何時の間にか空はうつくしい漆黒へと変わっていた。星の光もまたたいている。
彼は立ちあがる。
そうして親しげに身に寄り添ってくる生気に満ちた湿った風にそそのかされて、
僕は元気に生きてますよ、と呟いてみたりした。
Don't Copy 禁無断転載
600Hit踏んでくださったスミレさまに捧げます。
いつもおいでいただきありがとうございます!
お題は「楊ゼンさんの登場する」「初夏で和風で痛めな話」
「楊ゼンさんの登場する」と「楊ゼンさんしか登場しない」にはかなりの溝がありますが、
天祥や武吉ちゃんには逃げられました。初夏はいいとして、和風、痛めはどうでしょうね?
結構落ち着いたお兄さんになってしまったのであんまり痛くない感じですが、
書いてて気が楽と言うか幸せでした。
01.05.13 水波 拝
01.07.22 追記。
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お気楽長屋のTENさまに、
美しい楊ゼンさんを頂戴いたしました。
みずみずしい彩色はほんとうにひかるよう。
ありがとうございました。