めずらしくも朝早くから、黄巾力士の駆動音が聞こえた。
朝食の仕度をしていた天化は耳を澄ませ、ん〜と、太乙さんさ?とあたりをつけて迎えに出てゆく。
結構なスピードを出している割にはうるさくないのが太乙の運転の特徴だ。
きっと宝貝に日頃のメンテナンスが行き届いているせいなのだろう。
うちのコーチの運転がいちばん荒っぽくてやかましいさね、と天化は口にしたことはないが、
たぶんそれは事実のはずだ。
表に出たとき遥かにちょうど運転者の姿が認められるほどの距離で、
予想が外れなかったことに彼はにやっと口をゆがめた。
自分の目や耳が信用に堪えうるってのは悪くない。
見る見る大きくなる黄巾力士は、青峯山に近づいたところで速度が落ちる。
「おはようさ、太乙さん」
降り立った客人に、天化は常のごとくに声をかけた。
太乙さんにしてはめずらしく早い時間においでさね、とも考えてはいたのだったが。
「おはよう、天化くん。道徳いる?」
太乙が返した答えもいつもと同じものだったが、その声音と顔色が天化に朝一番の来訪の理由を推し量らせた。
問いに答えを返すより先に、それを遠慮なく確かめる。
「太乙さん、ゆうべ寝てないさ?」
ほんのすこしだけにしても難ずる響きが混じってしまうのは、早寝早起きを実践している洞府の住人としては致し方のないところであっただろうか。
良くも悪くも彼は修行中で、例えば修辞法なんてのは熟達からはるかに遠い。それよりはまだ青い率直さが彼の持つ美徳だろう。
いやもしかしていつまでも、この洞府にいる限りはこのままなのかもしれなかったが。
問われた太乙は口を尖らせる。
「そんなことないよ」
寝てないってことはないんだよ、と、重ねてぼそぼそと彼は呟く。
気恥ずかしいっていうのもあったし、天化くんに心配かけるのも悪いよね、と思いもするし。
けれど一度でいいことを二度も三度も口にすればそれは言い訳だと白状しているようなものではないかと、太公望あたりなら呆れて突っ込むだろうところだった。
「そうさ?」
もっともいまの聞き手はあくまで天化。
太乙が眠ったと言うならそうなのだろう、と彼は受け取る。
いかに憔悴したように見えても確かに原因は寝不足とは限らないさね。
太乙さんでもたまには早起きすることもあるかもしれないさ。
この率直な道士が素直という徳も一応いまだ持ち合わせていることは、太乙にとって幸いだ。
天化はそれ以上を詮索しないでいま必要なことに話を戻す。
「で、折角早くから来てくれたとこ悪ぃんだけど太乙さん、コーチはついさっき出かけちまったのさ。
ま、たぶんその辺走ってるだけだから朝飯までには戻って来るっしょ。待っててもらえるさ?」
そして一応尋ねはしたものの、太乙がそれに答えないうちに彼は洞府へと先に立ち、客人に席を勧め、「お茶でも入れるさ」と台所へ下がっていった。
存外に面倒見が良く無意識に強引かもしれない若い道士の在り様に太乙は呟く。
天化くんって道徳に似てるようで似てないし、似てないようで似てるよね。
そんなのはたぶんいつもどの師弟にも言えることなのだが、それでもしみじみそう思ってしまう瞬間があるのだ、こんなふうに。
ふと思い至る。私たちも似ているのかなあ?
深々とソファーに身を沈めながら、考えにも沈み込みそうになって太乙は慌てて首を振ったのだった。
それを避けるために彼はここに来たのだから。
太乙がゆうべ寝てないことはないというのは嘘ではなかった。けれど真実でもなかった。
天化の推量はその限りで正しかった。
結局天化が二重否定は肯定とまったく同じではないことを気に留めなかったとしてもだ。
眠りはした。
そして、太乙は夢を見た。
目覚めたときその内容を覚えていないことに安堵した夢を。
未明にその目を覚まさせた夢を。
もう一度眠れよう筈がなく、だから彼は朝の早い友人を訪ねてきたのだ。
もちろんそんなことは天化に言うようなことではない。いや、道徳にすら話すつもりはなく、けれどただなんでもない会話を誰かとしたくて太乙は黄巾力士を飛ばしたのだ。
うつとした気分を紛らせたいときに青峯山ほどふさわしい場所はない。
道徳が留守だと聞いたとき彼は迷いもしたのだが、
天化のちょっとした強引さは太乙にとって有り難かったといっていい。
台所から流れてくるかちゃかちゃと食器の打ち合う音が彼を現実に繋ぎ止め、
身を包む柔らかなクッション、糊のきいた麻布の感触に芯から落ち着く。
その住人たちは落ち着きなんてものから程遠い洞府なのに、ここで自分が安らぐことが可笑しい。
そんなことを言ったら道徳はむっとするだろうか笑い飛ばすだろうか。
相変わらず食器の音を聞きながら、ぼんやりと太乙は考えを漂わせていた。
開け放たれた窓からさしこむ大量の光、外に見える緑の木々。
論理とはまったく関係のないだろう環境の変化が自分の思考の移ろい方に影響する、その感触が暖かかった。
ここでなら夢を見なくてすむのかもしれない。
あれは何の夢だったのか。
その考えに近づいたり離れたり彼はぼんやりと時を過ごす。
時にはひどくうれしい夢だったような気さえする。
でもやっぱり眠ることが怖かったりもする。
思い出せないことに安堵している自分がまだいる。
でもそれはこの洞府に似つかわしくない思考のようだ。
何気なさのなかにも敏捷さを備えた足音が部屋に入って来た。
さっき私たちも似ているのかとナタクを想った、その感覚は夢にとても近かったらしい。
こだわりのない大きなマグカップを運んできた天化を見てもう一度同じことを想った太乙はそう感じた。
考えに沈むのはよして、表層に浮かんだことを頭の中で言葉にする。
君たち、飲み物は飲めればいいと思ってるよね。そっくりだよね。と、
太乙がマグカップを見てそんなことを考えているなんて天化は知らない。
「飲むさ。」
差し出された茶の暖かい湯気が太乙の体に触れる。
甘い香りが鼻をくすぐる。
あれ。
顔には出さなかったけれど、太乙は驚いた。供されたのは紅茶で、たぶんそれも蜂蜜が山と入った紅茶で、
太乙がいまだかつて紫陽洞で飲んだ記憶のないものだった。
なみなみと注がれたカップは重いくらいで、太乙は両手で包み込むようにして持つ。
熱いので、ふうふうと息を吹く。
顔に湯気が当たるのが心地良かったりする。掌もじんわりと温まる。
それらはひどく幼い仕草に見えるだろうことは承知しながら、太乙は紅茶をひとくち啜った。
香りから想像したとおり、ひどく甘かった。
私の趣味じゃないと思うんだけど、と太乙は考える。
その仕草も味も悪くないと思えてしまうのは何故なんだろう。
「ちゃんと全部飲むさ。疲れたときには甘いモノさ」
ああ。
天化が口を挟み、成程、と太乙は納得してくすりと笑った。
これはきっと、いつか道徳と天化のあいだで繰り広げられたことのある光景なのだ。
おそらくは風邪を引いたとか何かそういうときに。
紫陽洞の住人が病気になることなんていまはもうどうにも想像がつかないのだけれども。きっと、いつか。
愛情をなみなみと受け継いでいる同輩の弟子を、太乙はとても眩しく感じる。
羨ましいのかもしれない。
どちらを?
どちらも、だ。おそらく。
似ているようで似ていないようで似ている、その関係がきっと羨ましい。
太乙は再び人界にある霊珠を想った。
すくすくと育っている。
母の、そして微妙な父の、愛情を受けて育っている。
太乙だってこの上なく愛している。
ナタクはまだ太乙を知らないけれど、それでもこういう感情は伝わるものだ。
あの子が、確かにそれらを受け取っているのも知ってる。
なのに、不安に押しつぶされそうになる。
あの子はとても不器用で。与えられた愛情に甘えて返すことを知らなくて。
そうだ、そういう夢を見たのだ。
私にそっくりなあの子の。手先は器用でも感情の扱いは得意でない私にそっくりなあの子の。
優しい子に育っておくれよ、と太乙は祈るけど。
あの子はこんなふうに受けたものを人に返すことを知っているのだろうか。
手の中のカップの温もりに呆然と太乙は考える。
人を愛することを知っているのだろうか。
彼の中には拭い去れない不安がある。
だって、あの子はあんなに私に似ているのに。
こんなに愛していながら、こんなに信じていない、私に。
そう、だ。そういう夢を見たのだ。
自分に似てほしくない。
そう思い、けれどそれはあまりに残酷な願い。
それはなおさら愛することから遠ざかる、と考えるだけの理性は太乙にまだ残っていた。
けれど。
けれど私はこんなに酷いのに。
永遠に循環する。
覚めていて悪夢に辿り着いてしまった太乙は、今朝目覚めたとき以上の恐慌状態に陥っていた。
「太乙さん!」
誰かが、呼んでいる声がする。
と、太乙は我に返った。
呼んでいるのはもちろん天化だった。微妙に、目つきが険しい。
「太乙さん何考えてたさ?」
ええと。この天化の言葉は非難ではあるかもしれないが質問ではないらしい。
答えなくていいと判断して太乙はほっと息をついた。答えなきゃいけないとしたって答えられはしなかったのだが。
「食べるときはとにかく食べるさ。飲むときはさっさと飲むさ。冷めちゃ何にもならないっしょ?」
そう言って天化は促した。立ち去ろうとしていたのを戻ってきたところを見ると、どうやら見張っていなくては、と判断したらしい。
太乙が夢に囚われていたのもそう長い時間ではなかったのだろう。
熱い紅茶を啜りながら、太乙はとにかく何かを、出来れば他愛のないことを話したくて、発する言葉を探した。
外では朝の陽光がまぶしい。
「天化くんってさ、道徳そっくりだよね」
ああ〜。もっとほんとうにどうでもいい会話がよかったのに。
口からつい転がってしまったものは最早変えられず、どんな返事が返ってきてもこれ以上考えに沈むのは止めようと太乙は自分の心に鎧を着せながら天化の答えを待った。
「何ゆってるさ。冗談じゃないさ。そんなこと考えないでさっさと飲んじゃうさ」
天化は案外本気で嫌そうな顔をしたから、太乙はびっくりした。
だってこんなに似てるのに。そりゃもちろん似てないところもたくさんあるけどさ。
予想外の答えに思わず問い継ぐ。
「どうして?」
天化は微妙に頬を膨らせた、ような気がする。少なくとも口調は先刻よりも確かにぶっきらぼうだ。
「だって似てるだけじゃいつまでたってもコーチには勝てねえさ?冗談じゃないさ」
あ、なるほど。
天化の答えは至極もっともで、太乙は声を立ててくくっと笑った。
似てるのはどうしたって事実なのにね。
でも弟子の方にも事情はあるよね。
でも似てるよね、と言えば「それがどうしたさ」と返されると確信したから、太乙は試みなかった。
笑いつづけて紅茶を飲むのをまた忘れていたら、天化に怒られた。
「太乙さん?だからさっさと飲むさ!」
慌てて飲み干す。
どんなによく似ていても弟子は師匠と別の生き物だ。
ごく当然のことだ。
似ていても似ていなくても、師弟である事実には変わりない。羨む必要も悲しむ必要もない。
似てほしいと願っても、似てほしくないと願っても、本人の願い以上には力を持つはずがない。
優しい子に育っておくれよ、と太乙は祈るけど。
できることなんてどうせそうたくさんはなくて、できることをするしかなくて。
それこそいまの太乙には祈ることくらいしかなくて。
でも、自分よりはナタクの方がよっぽど信じられるから。
取り越し苦労の循環からようやく自分を切り離すことが出来た気がする。
空のカップを下げて朝の仕事を再開しつつ、ふと聞き忘れていたことに気づいた天化は台所から声を投げた。
「太乙さん?朝飯食っていくっしょ?」
返事がないので部屋を覗きこんだ天化は苦笑する。
「やっぱりゆうべ寝てなかったさ?」
ぐっすりと寝入っている太乙にふんわりと毛布を掛け、手早く朝食の仕度を済ませると、
騒がしく帰ってくるだろう道徳が客人を起こさないよう、天化は師父を迎えに外へ出た。
4000Hitも踏んでくださったぱんこさまに。
リクエストくださったのは「太乙+紫陽洞師弟」でございました。
えー。出来はご覧のとおり「金光洞師弟+紫陽洞師弟」でして・・
これでも方向修正したのです。はじめは完全に「金光洞師弟+天化」でして。
いや、いまでもそうだという突っ込みは・・・かなりありそうです(涙)。
とっ、ともあれ、紫陽洞の二人はいちばん親離れ子離れができている師弟かと(生きてるうちはね)。
金光洞の二人より心配なのは金霞洞の二人です(苦笑)。これもまた、生きてるうちは、ですけどね。
ええと、紫陽洞の客間と言いますかリビングはL字型に配置されたソファーに低いリビングテーブル。
ソファーなり床なりで寝っ転がったり腹筋したり腕立てしたりしなきゃいけないですもんね。
先日の金霞洞の客間は、黒檀のちょい装飾のある高い四角いテーブルに揃いの椅子でした。
ぱんこさま、いつもいらしてくださってほんとうにありがとうございます。
02.09.29 水波 拝