綺麗な月夜だった。
黄金の光は鮮やかに、黒い影はいっそう艶やかに、空に浮かび上がっていた。
「何を見ておるのだ?」
今宵この空に見上げるものが月でなければなんだというのだ。
自らそうは思ったものの、同輩の眼差しは月見というにはいささか真摯に過ぎるとみえたから。
「うさぎを、ね」
それはとにもかくにも月で、少し安心したのに。
どこかで咲いている金木犀がわずかに香る。
「愚かなうさぎを?」
「おろか、かな」
叩いた軽口に疑問が返されて、太公望は言葉を探す。
その問いは夜の静けさを際立たせ、こちらも声音を改めずにはいられなかった。
「我が身を犠牲にしたもてなしなど、嬉しくなかろうに」
飢えた旅人に与えるものがないからと、その身を焼いて与えた兎。
「嬉しくない?」
にっこり。
溢れる金の光が微笑む頭上の光輪によく似合って、いまにも天から迎えが来るのじゃないかとまごうほど。
その危うさに太公望は心の中で頭を抱えた。
「できぬことをしようとするのは愚かだと思うぞ」
「できることを探したんだよ?」
魚も獲れない。木の実も採れない。だから?
だからこの身を、というのは短絡的だ。
論ずる相手が普賢でなければ、その一言で片付けることもできただろうに。
考え抜いた挙句にその結論にたどり着きかねないこやつはまったく、たちが悪い。
そんなくだらない結論は、普通、人は選択肢からあらかじめ抜いておくものだ。
誰も我が身を傷つけたくはなく、そしてまた、人を傷つけたくもない。
それらは等しい。
人を傷つけても自分は、という人間が厄介であるように、自分を傷つけても人は、という人間もひどく厄介。
傷つけて解決するなら、傷つければ簡単なのだ。
自分も、人も。
―――だめだ。
もう一度太公望は頭を抱えた。反証ができてはおらぬ。
簡単だから選ぶのではない。短絡的だとも言い切れはしない。
考えに考えてそれが唯一の、最善の解答だったら。
それでも己は肯んぜず、目の前の相手はここで微笑む。
危うさはここに。
そして自分の迷いもここに。
「だいたい、旅人の気持ちなどこれっぽっちも考えておらぬのが気に食わぬ」
「考えたよ?それでも、ね」
「旅人は兎を食べることなどできなかっただろうに」
「食べたと思うな」
月の光が明るくて、辿るべき道が見い出せない。
己が口にしているのはすじみちを通したことわりではなく、
溢れる光が波打たせるままの感情の揺れ。
微かな花の香に酔っているのだろうか。
「言っておくがわしはそんなの嬉しくないからな」
「うん」
知ってるよ、と、聞こえた。それでも、と言っているのだ。
平行線をたどるのは当然だ。お互いの感情はそれぞれに自分だけのものだから。
そしてこの交わらない感情も、互いに理解できることがなおさらに厄介。
「どうしても何かしたいと、思うことがあるでしょ?」
「ならばそれは自己満足ではないのか?」
にっこり。
答えずふたたび微笑んだ普賢に、太公望は失言を悟る。
そもそも「わしら」に話を引き降ろしたのは失敗だった。
目の前の友人で論ずるのは、兎を論ずるよりよほど難い。
月の兎ならいざ知らず、普賢がそれを選ぶなら、それはきっと自己満足ではないのだ。
だからこそ論じているのだが。だからこそ、月に吸われていきそうで。
「わしがその兎だったら、おぬしは嬉しいのか?」
それは既に脅迫の類。酔いに任せているやも知れぬ。
けれどそれでも、論にならずとも、言葉を貶めても、譲れなかった。
それなのに。
「望ちゃんならね。嬉しいよ。望ちゃんがそれを選ぶなら、どうしても、ほかに手はなかったってことだもの」
あっさりと肯定されてしまうと。
「わしはそんな方法など選ばぬぞ!」
絶対に選ばぬ、と繰り返して言い募る太公望に、普賢は笑うばかりだった。
「そうだね」
普賢は、兎を食べるのだろう。―――おそらくは自分も、そうするだろう。
そしてそんなことをさせたくないから。
そんな方法は選ばない。
すじみちがどんなにそのことわりを指し示していたとしても。
兎は、旅人を傷つけることを承知の上で選んだのだ。
「我が身を犠牲にしたもてなしなど、嬉しくなかろうに」
「嬉しくない?」
にっこり。
たぶん、嬉しい。
それは認めなければはじまらない。同時にとてつもなく悲しいにしても。
そして嬉しいことこそがまた悲しい。己は、それほどまでに思われている。
兎は知らず、普賢が傷つけるものは普賢ではない。太公望だ。
自分を傷つけてでも、という人間は、人をも傷つける。
傷つくことより傷つけることがより痛いとしても。
彼は太公望が傷つくことを知っている。
そして傷つけるその事実にこそ彼は傷つく。
それでも。それでもそれを選択肢から除かない。
嬉しい。
それは認めなければはじまらない。
太公望は兎を食べる。それを認めなければ。
手を汚したくないだけの旅人など、兎よりもよほど愚かしい。
それでも。
「わしもそなたも不甲斐ない兎ではないし、愚かな旅人でもないぞ」
奴らよりは、近しく、聡い。
自負は太公望に必要なものであり、普賢も持っているはずのものだった。
口調に視線に太公望はそれを乗せ、友に伝える。
辺りに溢れる黄金の光に、拡散してしまわないように固めて。
いやお互いに顔がよく見えるから、溢れる光の中でよかったのか。
「そうだね」
はっきりと答える声を見つめて、彼らは笑った。
気付けばむせ返るような花の香、ふたりは明瞭に覚めている。
嬉しいと認めても。選択肢から除かなくても。
それでもそれを選ばずに済む道を。
月は静かに浩々と、ふたりを光で包んでいた。