朝から薄曇りだった空は急に水の匂いを湛え、幾らもしないうちに霧雨で白く煙った。
寒くはない。湿気が温度を封じ込めているような、生暖かい空気。
まして採光の良い大きな硝子窓を備えた教主の執務室はいっそう快い空間で。
まったく長閑な昼下がり。
いや、長閑な昼下がりのはず、だった。
「のどかだね〜」
お茶を啜りながら窓際に腰を据えた太乙が嘯く。
部屋の主はといえば憮然とした顔をそちらに向けた。
「それはまあ、相変わらず仙道のいざこざが絶えないのも、どなたかのお弟子さんをはじめとするパトロール隊が3回に2回はイザコザよりも大きな損害を出しているのも、挙句に昨日はここの足元で派手に騒がれたお陰で蓬莱島管理コンピュータにまで不具合が出て仕事が滞ったのも、結局太乙さまにご足労頂きましたが修理には予想外に時間がかかったのも、大した問題ではありませんから長閑といえば長閑ですけど。
で、僕はこれから溜まった仕事を片付けなきゃいけないんですけど、貴方はいまだにここで何をなさっているんです?」
彼らの会話に多少の刺は珍しくない。それでも、こうもあからさまなのは稀ともいえる。
だから太乙は失笑するところだったけど、何もわざわざ地雷を踏む必要はないのだと気付いて止めた。
もっともその代わりに彼がなした反応は、意識して選んだということが違うくらいで結果において変わるところはなかったのかもしれないが。
「あれ、見て分からないのかな。お茶を頂いているんだけど?」
ぴく、と相手のこめかみが引きつったように見えたのは、たぶん気のせいではないはずだ。
けれどほかならぬ教主自身がそれを認めることを拒むから、まだしばらくは大丈夫、と客人は一方的に茶話を楽しむ。
「いやあ、武吉くんの淹れてくれたお茶はおいしいよね〜」
「武吉くんの淹れるお茶が美味しいことは承知していますけど、なぜそれを貴方が僕の仕事部屋で?管理端末の修理もあれだけの時間をかけてようやく終わったのですから、さっさとお帰りになられてはいかがです?」
邪魔だ、と言えばひとことで済むものを、けれど彼はそういう語り口は選ばない。
もちろん必要があれば誰はばからずそう言ってのけるだろうけれど、単に他人が部屋にいるだけで邪魔で気が散るだなんてこと、その能力と気位からして言えるはずもないのだ。
それを太乙は心のうちでくすくす笑う。彼がどんな言葉を選んでも、それぞれに楽しみ方がちゃんとある。
「ええ?君のためにわざわざ駆けつけてめずらしくも朝早くからあんなに働いた私に、お茶の一杯でも出して労おうっていう気はないのかい?まあ、帰れって言われても雨降ってきちゃったからさ、そもそも帰れないんだよね」
太乙の返答に楊ゼンは盛大に溜息をついた。
仙人が空合いを読めなかったなんてまったく自慢にも何もなりはしない。
そんなことは承知の上で、要は雨が上がるまでここに居座るという宣言だ。
何を言い返しても同じように返されるだけだと、しかもそれをこそ相手が楽しんでいるのだと、不承不承に認めた教主は反論を諦める。
「まったく、恨めしい雨ですね」
そう言い捨ててこの招かれざる客人を無視することに決めようとしたのだが、しかし事はそう上手くは運ばなかった。
「あれ、楊ゼン、雨は嫌いなの?」
からかわれているのだと、論点をずらされているのだと、分かっていた。
だからまっすぐ言い返せばよかった。
恨めしいのは雨ではなくて貴方がここに居ることでしょう?と。
貴方に言われたくはありませんね、と返してもよかった。
決して屋外派ではない、寒いのも濡れるのも大嫌いに違いないあなたにだけは。
あるいはたった今決めたとおりに、何の反応も返さず無視を決め込めばよかったのだ。
そう、きっとこれが正しい選択だった。それなのに。
どれも選べなかった。
「嫌いですね」
どれかを選ぼうと考えるより早く、楊ゼンの口からははっきりときっぱりとそんな言葉が零れてしまった。
なぜ、と自分に驚いたその一瞬に、硝子窓の向こうの煙雨が血の色を湛えて見えた。
窓の向こうの白くけぶった世界から、窓際の太乙から、楊ゼンはゆっくり視線を外す。
自分がうろたえていることは知っていたけれど、それを表に出すつもりはなかった。
そうして太乙の反応を待つ。
不自然ではなかっただろうが、不用意に断定した自分の言葉。
構えていなければ、他愛ない混ぜっ返しにもぼろぼろと自分が零れていくに違いなかった。
すぐにでも半畳が返されると思ったのだけれど。
予想は外れ、静けさに窓越しの雨音がほんの微かに響く。
たかだか数秒のことではあったが耐えかねた楊ゼンがそれでもまた内心の波乱を隠しつつそろりと明るい窓へ眼を転じたとき、太乙は茶杯を手にしたまま外の白煙を眺めていた。
視線がぶつからなかったことへの安堵の息が静かに吐かれたそのあと一拍置いて、太乙は部屋の中へと体を向ける。
横に立つ楊ゼンの顔を見上げて、綺麗に笑った。
「私も、嫌いだよ」
濡れるのは嫌だし、傘は荷物になるし、湿気は精密機械の天敵だしさ。雷なんて論外でしょ。
土砂降りだとうるさいし、霧雨ははっきりしないし。
寒いのも蒸し暑いのもご免だよね。
顔をしかめて思いつくままにぼやく太乙の、その表情から目が離せなかった。
口調は先程までと同じく軽い。笑みを含んだような、からかっているような、心底厭わしいような、そんな不平の数々。
けれどただひとつが先程までとは違った。
楊ゼンはひどくほっとしていた。
思いつくままの愚痴、それは確かに本心だろう。
けれども共に丁寧な注意が払われている。
それに聞き手が気付かないはずがなかった。
彼は賢明だったから。そしてそれ以上に、彼はそれにこそ構えていたから。
楊ゼンの目を見上げて話しながら、太乙は楊ゼンに何ひとつ問うことをしなかった。
不平とからかいの対象は、先程までとは違って空と話し手に限られている。
自分も雨は嫌いだと、ただそれだけを太乙はいう。
ごく軽い話の種に不釣合いな強さで返した。
なぜ嫌いなのかと自分さえ問うた。
そして気付けば理由は自明だ。自分にも、まず間違いなく相手にも。
自分を守るために彼は構えたのだったけど。
彼は守られているのだった。
あくまでも厭わしげなしかめっ面に、嫌いだというその感情を肯定されて。
楊ゼンはひどくほっとしていながら、同時にまたもうろたえている。
こんなに安堵しているその事実には動揺しないわけにいかなかった。
返す言葉が探せない。だから楊ゼンは黙って太乙の表情を見続ける。
自分の表情に細心の注意を払いながら。彼はやはり動揺を表に出そうとはしないのだ。
それを太乙は心のうちでくすくす笑う。彼がどんな態度を選んでも、それぞれに楽しみ方がちゃんとある。
君が平静でないなんてこと、すぐに分かるのに。
君がぼうっとただただ黙って私の言葉を聞くだけなんてこと、それだけでもう普通じゃないのに。ねぇ。
どうせ感情が知れてしまっているのなら、その感情のままに喚いてみせたらいいのに。
雨は嫌いだと。嫌な思い出を呼び起こすから、嫌いだと。
太乙は思う。
玉鼎の弟子は絶対にそんな態度を選ばないと、承知していながら思うのだ。
そう言ったからって、君の何も傷つかないのに。
それはごく自然なことだし、君はそこで立ち止まっているわけじゃないから。
そんなことは私も君も知っていることなのに。
そんなにうろたえながら、それでも態度を選ぶんだよね。
それはやっぱり笑みを零さずにはいられないありさまで。
雨への文句をひとしきり吐き出した太乙は、そこではっきりと笑った。
「太乙さま?」
涼やかな笑いはけれど充分に唐突で、言葉を取り戻した楊ゼンが問いかける。
「雨は嫌いだけどね」
太乙が選んだ口振りはやっぱり軽かった。
笑みを含んだ、からかうような。
もう一度視線を外に向けると変わらず雨は降り続いている。
厚い雲を通り抜けても射し込む光は立ち込める水粒に数限りなく反射して、
世界は白く光っている。
「帰れなくって美味しいお茶が頂けるってことだけは、悪くないよね」
太乙は手の中の茶杯を空ける。
「武吉く〜ん、お代わりもらえるかな?」
走ってきた武吉ににっこりと笑いかけ、お菓子もね、柿羊羹があったよね、武吉くんも一緒にお茶にしようよ、などと他人の執務室で勝手に采配をふるって。
雨の日くらいいいでしょ、と多忙な教主をアフタヌーンティに引きずり込むのだった。
まったく、長閑な昼下がり。