かなたに



ずっと、ずっとずっと遠くへ行きたいと、僕はナタク兄ちゃんにそう頼んだ。
ナタク兄ちゃんはフン、と鼻を鳴らして、真っ直ぐ飛んでくれたんだ。



はるか下方、時に見える町並みは見る間に過ぎ去り、 荒野はゆるい起伏を描いてどこまでも続いてゆく。 岩を削り勢いに乗って流れていた川も何時の間にかゆるやかに、 ところどころ緑が広がる岸辺にはまた人の暮らしが見られる。

遠くへ。
とにかくずっと遠くへ行ってみたかった。
たくさんの人たちから離れて。
遠くへ。

たくさんの人たちは、誰もが天祥に優しかった。
兄たちをはじめ誰もが天祥に気遣わしげな視線を向け、元気付けようと遊んでくれ。
それぞれの死別を誰もが抱え、そして自分以上に天祥を思い遣ってくれたのだった。

それは温かく、ありがたいことだ。
いままた自分が笑っているのもそのおかげだと彼は知っている。
そして逆に、自分が笑っていることでたくさんの人が慰められていることも聡い彼は知っている。

それだけのことを感じていても。
それでもなお。

ずっと遠くへ行ってみたかった。
たくさんの人たちから離れて。

向かう方に昇っていた太陽はいつしか頭上へと移り、はるか下に映るふたりの影は小さい。
白く眩しい昼の光のさなか小さくともその鮮やかな黒さは際立って、 それが大地を駆けるのを天祥はしばらく眺めていた。
視線を転じ、前を見遣れば高い空に白く大きな雲。
強い日差しも風を切って飛んでいる身には心地良いのだが。



この高さにまでは蝉の声も届かずに、音といえばやはり風を切る音ばかり。
西岐を出てからふたりは言葉を交わしていなかった。
ずいぶん飛んできた。
いま飛んでいるここがどこなのか、ナタクは知らない。

「どこへ行きたいんだ?」

背中に乗せている天祥の顔は見えないが、その視線があちらへこちらへ定まらずぼうっと漂っていることは感じていた。何かを探しているのだろうかとナタクは思った。

     どこかに行きたいわけじゃないんだ」

「そうか」

しばらく時を置いたあと返ってきた声は案外しっかりしていて、ナタクは納得してまた飛びつづけた。
ずっとずっと遠くに行きたいという望みはまだ有効だったから。
どこか、ではなく遠くに行きたい。それは別に矛盾ではなかった。

もう太陽は中天を過ぎ、光は後ろから照り射してくる。
河は一段と広くなり、この暑熱の季節にも両岸に潤いをもたらしている。
森があり、その向こうに草原がある。
あるいはそれは草原ではなく人の手の入った田畑だったかもしれない。

大河の流れに従って、ずっと遠くへとナタクは飛ぶ。
ナタクは真っ直ぐに前を見ていた。

「ねぇ、ナタク兄ちゃん」

「何だ」

「自分で空を飛ぶってどんな気持ちなの?」
天祥はナタクの視線を追っている様子だった。

知らん、と答えようとしてナタクは思いとどまった。知らないわけじゃない。とりたてていう言葉が見つからないだけだ。オマエもいま飛んでいるだろう、と次に答えようとして、それでは質問の答えになっていないことにまた気付いた。自分で飛ぶのと人に乗せてもらうのは違うのか。しかしそれは自分で飛んだことしかないナタクにはわからない。

     自分で飛ぶことはオレにとっては当たり前だが」

問いに答えるためにはナタクもしばらくの時を必要とした。
背中で少しがっかりしたような気配がある。ナタクは苦笑して言葉を継いだ。

「オマエを乗せるときは自分で飛べてよかったと思う」

飛ぶ感触が、自分で飛ぶのと人に乗せてもらうのと違うかどうかはわからなかった。
自分ひとりで飛んでいるとき、それはごく自然なことで感慨があるではなかった。
自分で飛ぶのと人に乗せてもらうのは違うのか。
だから違わない、と結論付けようとして、けれど違うと感じたから。

探して、探して。見つけた「違い」はそれだった。
乗せてもらうならさらに誰かを乗せることはできない。



ずっと、ずっと遠くへ行きたいと思った。
たくさんの人たちから離れて。
それは確かに自分の願いだ。

自分ひとりで飛べるなら、いつでも、遠くへ行けると思った。
では自分ひとりで行きたかったのか。

ナタクの背中で天祥はゆっくりと首を振る。
それを認めるのは恥ずかしいような気もしたけれど。でも、嬉しいような気もした。

どこかへ行きたいわけじゃなかった。
ずっと遠くに何があるのか見てみたかった。
たくさんの人たちに守られた温かい世界の外。

いずれは、自分ひとりで行くのだろうか。
自分の足で歩いて。
けれどいま彼が願っているのはそういうことではなかった。

ナタクと行きたかったのだと、天祥は認めた。
行きついたら、たくさんの人たちのところへ戻りたいのだと天祥は認めた。
それはやはり温かいことで、たぶん恥ずかしいことではないのだ。

そしてそれでも、ずっと、ずっと遠くへ行ってみたかったのだ。
いま天祥は真っ直ぐに前を見ている。



すでに大河は悠揚迫らず泰然とたたずみ、低く降りた陽が川面を煌かせる。
空の色は少し青みを増し、次に茜色を予感させるやわらかさ。

あ、と天祥が呟いたのと。
お、とナタクが呟いたのと、どちらが早かっただろうか。
はるかかなた視線の先に広がる水光。

見る間に視界を青い水の連なりが埋め尽くす。
「何だ?」
首を傾げるナタクに、天祥は答えを持っていた。
「海、だよ、きっと」

話に聞いたことしかない、そんな言葉がいま現実のものとして目の前に広がる。
彼方が見えない、広い広い水の平原。
砂浜にナタクは降り立った。
寄せては返す波の音。空気の湿り具合も違う。そして不思議な匂いがする。

遠くへ来たんだ、と天祥は思った。

「ナタク兄ちゃん、ありがとう」

天祥もナタクも初めて見る知らない世界に目を奪われて。
言葉もなく飽きるまで水平線を眺めた。


プチ家出(笑)。
心配している身からすれば笑いごとじゃありませんが。
夏の終わりには、亭主、飛びたくなるみたいです。
どうにか8月中に滑り込み。前も同じこと書いたなあ(苦笑)。

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