羊のぬくもり
白くひかる太陽の下でも空気は凍って。
群れの中に身を置きながら自分以外の皆が持っている白く厚い毛を羨んでしまう日が続く。
けれども彼らは力に欠けて、僕が守ってやらなきゃいけないのだから。
迷い仔を出さぬようにと思いつつ日に日に遠くなる草場を求めて、子どもは羊の群れの中
てくてくてくてくと歩いてゆく。
その周りにはもこもこの毛、そして生きているものの熱。せっせと歩けば次第に暖かくもなろうというもの。
群れを率いているような、群れに埋もれているような。
彼は羊と共に生きている。
ここでいいかな。
すこしだけ風をさえぎる緩やかな窪地。南の斜面に陽だまりと地を這う草の広がり。
悪くない場所を見つけて呂望の気分は上々だった。
足を止めると羊たちは三々五々食事に散っていったので、日差しを浴びても冷気が肌を刺してくる。
冬だから。
寒くないわけがないんだとそう自分に言い聞かせ、彼はひとつ頷いて腰を下ろした。
寒いけど、寒いんだけど羊たちが草を食む情景は何度見ても毎日見ても見飽きることはなく、
うれしくて、そしてあたたかい。
メエ、と鳴く声を聞きながら、それでも静かな広い空の下。
幼い牧人はいつもこうしてぼんやりと日を過ごす。
今日までは。
「望」
呼びかけられるまで人の気配に気づかなかった。
振り返ると上の兄が優しく彼を見下ろしていた。
末の弟の顔もほころぶ。
「兄様」
自分より大きな兄と並んで坐るとさらに空気は暖かい。今日はとっても幸せな日だ。
同じ方向に群れを導くなどめったにないこと。
父からも母からもどんな大人からも離れてふたりきりなんて、非日常の楽しみだから。
気分を浮き立たせている弟に、兄は微笑む。
「望はいい草場を見つけるね。ああ、みんなうれしそうだ」
辺りを眺めてゆっくりと発せられた言葉に、望は満面の笑みで自分の群れを語る。真ん丸く元気に太っているのが群れ一番の子だくさんな母羊、彼女は案外お調子者。そう大きいでもないけれど引き締まった顔つきの、頼りになる群れのリーダー。あの仔とあの仔とその仔とあれが今年生まれたばかり。これがしょっちゅう群れから外れようとする元気者。それからからだは大きいけど気のいいのんびりや。それからそれから。
こんなに話すことがあるなんて、話してみるまで知らなかった。
深く頷いて相槌を打ったり、重ねて問い掛ける視線を返したり、丁寧に丁寧に聞いてくれる人がいたからかもしれない。
話して話して話して呂望がとうとう話し疲れたとき、ずっと聞いてくれた兄はこんなことを言った。
「いい群れだね、望。
いま狼が来たら、どうする?」
問われた子どもは一瞬きょとん、とした。
その次に、兄様は意地悪だ、と思った。
それから、うーん、と考えた。
兄は変わらずににこにこと微笑んで望を見ている。
その目の光が意地悪じゃなかったから、彼は答えを探すのだ。
狼が来たら群れをまとめて逃げるのだ。それはわかってる。
どうやったら逃げ切れる?
問題はそこにある。
幾匹かを犠牲にすれば、早く安全に逃げられる。
その策を避ければ皆を生き残らせることが出来るかもしれないけれど、 より深く危険に足を踏み入れ皆を失うかもしれない。
狼が間近に迫る状況で、選べる道はどちらかだけだ。
だから問いは、ここにあるはず。
・・・・・。
「狼の来るところになんか行かないよ。
もし来ちゃっても逃げられるうちに逃げるもん」
不意に雲がわたり翳った日差しに幼い牧人は言い募る。 我ながら、子どもじみた物言いだと思いながら。
だって、どちらもいやで。どうしても選べなかったので。
それでも選ばなければならないときにどうするか、を問われているのだと 彼はそう理解していたのだけれど、でも選べない。
とはいえやっぱり幼すぎる答えかな、と口にしてから不安が膨らむ。
彼は背伸びをしたいのだ。それでも、でも。選べずに。
呂望は口をつぐんでおそるおそる兄の顔を見る。
視線が確かに交わった瞬間、兄は破顔した。
「望は賢いね」
そして頭を撫でてくれたのだ。
望は自分が問いに答えたと思えない。
けれど、おおきな兄の手の中にすっぽり包まれる感触は幸せというほかない。何時の間にか彼はまた陽だまりの中。
そんな暖かさに包まれてひととき、賢い呂望は気づいてしまった。
彼は案外たいへんな、そしてたいせつなことを宣言したと。
一頭残らず、そして確実に安全に。
そんなふうに彼は群れを守るのだ。
そのためにあらかじめ手を尽くすのだ。危険が迫ってからでは遅い。
そんなふうに理想を追うのだ。
どうすればそれが叶うのか、子どもは羊を眺めて考える。来る日も、来る日も。
どんな草場に連れて行けばいいのか、何に気をつけていればいいのか、どうすれば早く群れをまとめ速く動かすことが出来るのか、来る日も、来る日も考え、そしてやってみる。
兄の問いは彼がはじめ思ったような小手先のものでなかった。
乾いた風は変わらずに肌を刺すけど、寒いけど、身体の内はあたたかい。
あの日あのあと兄様は言った。同じ言葉をもういちど。
「いい群れだね、望」
「うん」
彼は羊たちが大好きだ。
ひとつ歳を取るということは、どういうことだろう、と。
戦うこととなる「状況」をつくらないために何が出来るのだろう、と。
「守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ」(
出典
)の亭主の解釈はこんなだな、と。
初書きの兄様、お名前も存じませんが、健全に溺愛しているに違いない、と。
雑煮、いやごった煮のお正月。明けましておめでとうございます。
どうか平和な一年でありますように。
春節は春の話でも、これは冬の話です。
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