その日は御前試合があったのだけれど、最後に残ったのはいつものとおり飛虎と聞仲。
そして今日は飛虎が負けたのだった。
見に行った天禄と天化が悔しそうにでも目を輝かせて話すのを聞きながら賈氏は思う。
それならよい試合であったのだ、と。
*
日が暮れたころ武成王府の門戸に立った人の気配。
賈氏が夫かと思い振り向くと、そこにいたのは殷の太師だった。
「あら。聞太師、よくおいでくださいました。けれど、申し訳ありませんが主人はまだ、」
一礼して聞仲を見上げた賈氏はすこしばかり困った表情を浮かべる。
聞仲は軽く手を上げて、続けられようとした言葉を遮った。
「いや、飛虎がまだ帰っていないことは承知しています。すこし遅くなるからと伝えてくれと」
「まあ」
殷を支える宰相を伝言係に使うなど、幾ら親しいといえども無茶ではなかろうか。
賈氏は再度頭を下げる。
「ありがとうございます。聞太師に言付けをお願いするなんて勿体無いことを」
「いいえ。飛虎が遅くなるのは私のせいでもありますから」
それはいつもの謹厳な表情で語られたけれどささやかな軽口で、それと気付いた賈氏はくすりと笑った。
「そうですわね。悔しくてどこかで稽古をしているのでしょう?」
聞仲は頷く。
「おそらくは」
わかりやすい思考回路の武成王は今ごろどこかでくしゃみでもしているに違いない。
「あら、そういえば私まだお祝いも申し上げておりませんでした」
おめでとうございます、と続けられた言葉に聞仲は頭を下げた。
「これは御丁寧に。本日は私のほうが僅かばかり運が良かっただけですが。」
「・・・存じておりますわ」
賈氏の返答は聞仲の予測の範囲をはるかに外れていたのだけれど。
改めて賈氏の顔を見遣った聞仲は破顔する。
こんな言葉を返しても、賈氏の声は優しくて、その表情は慎ましやかだ。
彼はこんな女性を他に知らない。
「おや、負けず嫌いなのは飛虎だけではないようですな」
「ええ」
聞仲への称賛もその瞳に湛えたまま、賈氏の口ぶりは丁寧に歯切れがいい。
「だからこその心からのお祝いですわ、聞仲さま」
この人は。
聞仲は改めて、失礼にならない程度に賈氏を上から下まで眺めた。
飛虎や聞仲の手にかかれば折れてしまうかも知れない細さに、きっちりと隙のない着こなし。
鮮やかな黒髪に、大きな眼。
凛とした人だとは知っていた。飛虎には勿体無いとは、いつも冗談で口にしていた。
けれどそれどころではない。
この人の魂はひどく飛虎に似ていて、彼女はまさに飛虎にふさわしい。
「ありがとうございます」
もう一度そう聞仲は言う。
精一杯競い合った者からの称賛が最も嬉しいのは、技を磨く者なら誰でも同じだ。
最後の最後、僅かに己を上回る者をこそ心底称えられるのも。
その差は僅かで、けれど結果は明らかで。
その差を実力と呼ぶのでは言葉が足りない、運と呼んでも意を尽くさない、
勝負をつける度にそんな何かがその都度その都度二人の間に立ち現れる。
それは聞仲に微笑むこともあれば飛虎に微笑むこともあり、
確かに今日は聞仲がそれを射止めたのだが。
それは運ではないから負ければ悔しい。
それは運ではないからもっと自分を磨こうと思う。
そしてでも、それは実力だけではないから変わらず自分を信じている。
自分を信じているから、だからこそ自分を上回った相手を称える。
そんな思いを飛虎と聞仲は共有しているはずだ。
いま聞仲は飛虎から称賛されるのを最も心地よいと思うが。
賈氏の言葉に同じ感慨を抱く、それは不思議な感覚だ。
この人は自ら剣を取ることをしない人なのに。
この女性は飛虎の心を何よりも近く親しく感じ取るのだろう。
剣を取らずとも剣を取る男に対等に添うことができるのだ。
聞仲は賈氏のような女性を他に知らない。
飛虎を羨ましく思ってもいいのかもしれない。
頭の片隅に浮かんだそんな戯言と一緒に、聞仲は武成王府を辞した。
飛虎に言ったら自慢げに豪快に笑うだろう。
少々悔しい気もするが、お互いさまで悪くはないか。
「大人の香りがする」にほど遠くて申し訳ございません(>_<)。
終わってみれば結局飛虎帰って来ませんでしたし(汗)。
けれどもしみじみ書かせていただきました。夫婦と独身。
欠片も出てきていないのですけど朱氏にもいろいろ思いながらの文章でした。
・・・いやお題は「飛虎と聞仲」だというのに。
3人でお酒飲んでる大人な話などそのうちに書けるといいのですが。
(お酒が出るから大人というものでもないだろうに)
外に現れた何かにぎっしり見えない中身が詰まっている、
そんな大人が書けるようになりたいところです。
大変遅くなりましたが、リクエストありがとうございました。
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