「強くなりたいというのは、欲だろうか」
軒下で隣に腰を掛けた同輩が、外を見たまま発した言葉は、でも確かに疑問文だったから。
自分に向けられた質問だと一応理解して太乙は相手に向き直る。
それでも相手がこちらを見ないというのはその彼らしからぬことであり、
考えてみれば自分と並んでぼうっと外を眺めていることが、そもそも彼らしからぬことだった。
外では数人の道士が、つまり道徳やら黄竜やら慈航やらが修行に励んでいる。
参加する気のない太乙が実験の待ち時間を潰すのにそれを眺めているのはよくあることだ。
時々、「太乙もやろうぜっ!」と騒がしく誘ってくるのもいれば、
「たまにはお前も体を動かしてはどうだ」と静かに水を向けてくるのもいる。
太乙は黙って笑うだけでこれらをかわし、彼らの動きを見ながら次に作る宝貝を考えたりするのだ。
何度も繰り返されたそれは日常そのもので、その是非など考えもしなかったが。
未だにこちらを向かない横顔を見遣って太乙は考える。
いったい、いつからそんなことを考えていたのだろうか、と。
きのう今日の思いつきではないことは、堅い表情が語っていた。
玉鼎。君はそれが解決しなけりゃ、剣も振れないってとこまで思いつめてるわけ?
まったく、いかにも堅物なのだ。
まあいいや、悩みなよ。
体力勝負なんて到底できやしないけど、考えることなら私だって付き合ってあげられるんだから。
それはずいぶん控えめな表現だった。
付き合ってあげられる、どころではない。
たぶんその問いは、太乙が自分に何度も、何十回も何百回も立てたと同じもの。
より多くを知りたい、と太乙は願う。
より複雑なものを作りたいと、太乙は願う。
ひとつ叶えば、もうひとつ先へ。進めば進むほど、深く。
進んでいることは知っていた。深みに嵌っていくことも理解していた。
なぜ、どうして、と問わずにはいられない。本当に動くのか、確かめずにはいられない。
研究とはそういうものだ。そう思っていた。
一歩、また一歩と進んで。そしてそれに思い至ったそのとき、太乙は立ち竦んだのだ。
知りたい、と願うのは欲だ。
作りたい、と願うのは欲だ。
生命を創りたい、と願うのは、・・・罪だろうか?
何度研究の方向を変えても、興味の対象を逸らせてみても、太乙はそれに行き当たる。
より多くを知りたい。より複雑なものを作りたい。
深く進めば進むほど、どの道も次第に狭くなるかのようで、そして一点に集約されていくのだ。
ありとあらゆるものの中で、もっとも複雑で、難しく、多くの秘密が隠されて、そして魅力的なもの。
生命を創るのは、罪だろうか。
それが罪なら。
いや、それは罪だとそのとき立ち竦んだ太乙は思った。
それが罪なら、ここに至る道の全てが罪なのだ。
だって、進めばどうしてもここに至るから。
生命を創りたい、と願うのは、欲だ。欲とは即ち、罪なのか。
知りたい、と願うのは、欲だ。それは即ち、罪なのか。
欲を捨てた者を、仙人というのは。それはこういうことなのか。
それは研究の全否定に他ならないから、太乙はどうしても、頷けなくて。
惰性で実験を繰り返してみたり、手に付かなくて放ったらかしてみたり、
先人の書き物を読み漁ったり、当てもなく歩きまわってみたり。
そしてちゃんと、順を追って考えてみたり。
順を追って考えた挙句に立ち竦んでいたのだから、そんなことで太乙の問いは解けるはずもなかった。
ううん、今でも解けていないんだけどね。
ふんわりと太乙は笑う。
解けてはいないんだけど、これからも解かなきゃいけないんだけど、でもね。
いまはあのころのようには、苦しくない。
「どうしたんだ、太乙?」
ある日、そう声を掛けてきた遠慮のない若い道士がいて。
太乙は思わず叫んだのだ。
「ねえ、今なんて言った、道徳?どうしたんだって言った?知りたいの?私のことを、知りたいって、思うの?」
道徳が太乙の反応に驚いたのは当然だ。彼は相当に怪訝な顔で答えていた。
「そんな顔されたら、心配じゃないか。そりゃ、何で悩んでるのか知りたいって思うぞ?」
「そうなんだ。ありがとっ、道徳!」
急に吹っ切れた顔でそれだけ言って立ち去った太乙に、後に残された道徳は首を傾げたことだろう。
太乙は嬉しかったのだ。
私がこれだけ嬉しかったのだから、道徳のその感情が罪だなんてことは、ない。ないはずだ。
まだいないこの子を、道具とみるのはきっと罪だ。
まだいないこの子を、愛することはたぶん罪じゃない。
まだいないこの子を、甘やかすのは罪かもしれない。
ひとつひとつ、太乙は考えながら丁寧に実験を繰り返す。
たくさんの実験はできなくなった。とりあえず試してみる、なんてのもやめた。
この子は、まだいないけど、かけがえのない生命だ。私がそうであるように。
いつしか、太乙は実験対象に話し掛けるようになっていた。
まだ生めない。この子を生むのは、まだ、罪かもしれない。
まだ太乙は答えを得ていない。まだ問いはそこにある。
この子を生むのは、まだ、罪に違いない。
もっと考えて、疑問を解いて。
この子がひとつの生命として尊重されて生きていく、それに必要な条件を考えきって整えるまで。
もっと考えたい。もっと知りたい。
もっと知りたいと願うのは、紛れもなく欲だけど、だけど、必ずしも罪じゃないはずだ。
この子に幸せになってもらいたい、その欲は、罪じゃない。
欲を捨てた者を、仙人という。
弟子を取る者を、仙人という。
それがひとりの人間の中で矛盾しないなら、必ずどこかに道があるのだ。
「玉鼎」
ふんわりと笑んだまま、太乙は語る。
あのとき私が道徳から受けたものを、玉鼎に返せるといい。それも欲。
「それは欲だよ。私が霊珠を生みたいと願うのも、玉鼎が強くなりたいと願うのも」
その答えは、太乙も同じ問いを抱いていることを玉鼎に知らせる。
そこで彼ははじめて振りかえった。
太乙の笑みは、とても透き通っていて綺麗だ。
それは玉鼎に向けられている。
眼を合わせたその表情が少し緩んだ。
「すまない、」そう呟くから太乙は笑んだまま首を振る。
今度は太乙が外を見遣った。
日の光の下では道士が剣を振ったり取っ組み合ったり。
組み合って転がって跳ね起きる、そのしなやかな体の動きは綺麗だ。
その夢中で真剣な眼差しも。
綺麗だと、玉鼎は太乙の視線を追って認める。
彼らもまた強くなりたいと願っている。
そんなこと、私より君のほうがよくよく知ってる。
問いには答えは出ていない。
欲は戒められるべきもの、律せられるべきもの。溺れるべからざるもの。
だってそれは際限がなく、行きつく先を善だと信じ切ることはできない。
けれど。
「強くなりたいというのは、欲だろうか」
そしてそれは、罪なのか。
その問いは結局とても君らしい。
真面目で自分に厳しくて、そして融通のきかない。
悩みなよ。付き合ってあげるから。
ううん、付き合いたいから。ともに考えたいのは私の欲。
これは君の問いで、私の問いで。
ひとりで考えるべきものでありながら、ひとりだけで考えているのではきっと足りない。
「いや、・・・感謝する」
玉鼎が先刻の謝罪を訂正するのが聞こえた。
そう。問いを向けてくれて私も嬉しい。
私がいて、君がいて、まだ見ぬあの子がいて、道徳がいて、みんながいて。
いて欲しくて、関わりたくて、みんなのいる世界は欲に溢れているのだけれど。
その世界は決して、醜くはないのだ。