空が白く、低い。
ストレッチにランニング、組手に筋トレと毎朝の修行をこなしつつ、天化はさっきから何度か首を振っている。
「ん〜?」
道徳はそれをじっと眺めていた。
んー。いつもどおりに元気だし、心配していることも特にない。体が自然に動くくらいに何度もやった修行のメニュー。
青峯山で過ごす二度目の冬。思いのほか寒くないし、夕べはぐっすり寝たし、問題はなにひとつないはずだ。
けれどどこかに、違和感がある。
ふわわ。考えていたら欠伸が出た。
くっと笑われたような気がして道徳を振り返ると「どうした、天化?」と声が掛けられる。
別に道徳は笑ってはいなかった。
やっぱりどこかに違和感があって彼は首を傾げるのだ。
そのあと道徳が頬を緩めたのを、天化は知らない。
んー。
何なのか、わかんないさ。
いや、何かあるのかどうかもわからない。すべては天化の気のせいなのかもしれなかった。
・・・まあ、いっか。
考えてもわからないことは、考えないに限る。
だから天化はいつもどおりにゆっくりと筋を伸ばし、曲げて、また伸ばす。
ふと、今日は静かさ、と思った。
あー。何かわかるような、わからないような。静かで、ゆっくりで、静かで。
それは抱えている違和感にひどく近い。
だから天化は耳を澄ませた。
何だろう、と首を傾げる自分の気配。いつもと変わらず明快な道徳の気配。
風はない。
天化にはまだ遠くまでは聞こえない。気配を読むのもぎこちない。
それでも、わかるかぎりで青峯山には動物たちの気配がふたつか、みっつか。
たぶん食べ物を探している鹿と、走っている狐と、それから、うーん、何さ?
いつもより遠くまで聞こえそうで、いつもより動きがはっきり見えそうで。
いつもより音はくぐもって、それでも動かない山に動く気配は明らかだった。
でもまだ「何か」にはたどり着かない。
不意に道徳の気配が消えた。振りかえればそこにいるのだろうけど。
明るい気が絶たれてしまうと、山はいっそう静かに響く。
空が白く、重い。
んー。
静かさ。
その静かさの中ふわわわわ、と大きな大きな呼吸。
鼓動さえいつもよりゆっくりな気がする。
まさか、ね。天化はいつもどおりのつもりだけれど、その心の動きさえいつもよりゆっくりなのかもしれない。
山も、天化も、動物たちも、何もかもがゆっくりで。
空がずっしりと音を吸い込み、何もかもが静かで。
ゆっくりで、静かで、重いから。
何か、来る。
「雪が降るさ、きっと」
不意に答えが口をついて出たとき、自分の重さにはちきれた空からひとひら。
とくん、と鼓動が跳ね上がる。
わ。
目が覚めたさ。
決して寝ていたわけではない天化の呟きに道徳はやっぱり頬を緩めた。
欠けていた何かが満たされて、いつのまにか世界に動きは戻っている。
空は低くて、風はなくて、音はないけど。目の前を小さく白く軽い欠片が舞う。
山は眠ろうとしている。リスが眠っている。だから目覚めた百舌鳥の羽ばたきが鮮やかに聞こえる。
雪は世界から音を消すけど。そして山はしんと眠るけど。
雪の動きに目を奪われて胸はとくんとくんと軽やかに打つ。
静かさね。ほうっと深く息を吐いて天化は思う。
うーん、と体を伸ばしたら、くっと笑われたような気がした。
振りかえった道徳は別に笑ってはいなかったけど。
「コーチ、笑った?」
「はははっ!よくわかったな!」
「なんかそーゆー気がしたさ」
抗議も兼ねてじとっと見上げてみるけどもちろん道徳は気にしない。
弟子がひとつ何かを手にするところを、眺めて楽しくないはずはないのだ。
「ま、おはよう!天化」
「それたしか30分も前に聞いたさ」
軽口は返してみるけど、熊みたいにまどろんでいたのかもしれない。
だって山が静かで、空も静かで、そう、冬だからさ。
でも、雪が舞うから。
「ま、おはようさ、コーチ」
ちらちらと白い欠片に心が踊り、そうして師弟は元気に動く。
降る雪はその音を優しく吸い込んだ。