眼前は黒一色。
尻に触れる冷たい温度。
下半身に感じる体重。
シャツの胸元を掴む手。
ちょっと仕返ししてやろうって思っただけなのに、何でこんな状態になってるんだ?
俺は自分の上に伸しかかる彼女の体重を感じてそんな事を思った。
俺以外に騙されるなよ
俺の1つ上の女の先輩は、本当に単純だ。
というか、馬鹿だ。
「ー、背中に毛虫付いてるぜっ」
「えっうそ!どこ!?取って!」
くるくると自分の背中を追って回る彼女を見て向日さんがけらけらと笑う。
もちろん、毛虫など付いていない。
「向日、オメーはまた…。毛虫なんかいねーよ」
その横を宍戸さんが通り過ぎ、「激ダサ」と言いながら彼女の頭をポンポンと叩いていく。
「な…!こらぁ岳人ーーッ!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして逃げる向日さんを追う彼女。
(あ、ぶつかる、)
そんな風に思った矢先、案の定彼女は横切ろうとした忍足さんに衝突する。
尻餅をつきそうになった彼女の腰を支え「大丈夫かいな」と声を掛ける忍足さん。
「…ジブンちょい太ったんちゃう?」
「え、えっ、うそ!ご、ごめん」
「冗談や」
そのままどさくさに紛れて腰を撫で回されると、そこでようやく彼女は忍足さんのスキンシップに「せ、セクハラー!」と抵抗を始める。
振り上げられた手をひらりとかわして忍足さんは楽しそうに笑っている。
そして仕上げに、帝王のご登場だ。
「オラ、テメーら、いつまで遊んでやがる。、5分以内に全員分のドリンク準備。できなかったら、グラウンド10週な」
「えっちょ、待って無理だか、りゃっ」
「嘘に決まってんだろ、バーカ。良いから早くしろ」
身体全体を使って焦りを表現する彼女に跡部さんがデコピンを食らわす。
彼女は弾かれた部分を「痛いよ!ばか!」と言いながらさすっている。
そこでようやくレギュラーによる恒例「弄り」は終幕を迎える。
今日はまだましな方だ。酷い時は鳳や芥川さん、滝さんまでもが弄りに参加する。
もちろん俺は、そんな一部始終を冷静に観察してたわけじゃない。
怒り。腹の中にはその感情しかないんじゃないかというくらいに腹が立つ。
何でかって、それはあの人が俺の彼女だから。
付き合ってることは周りには秘密にしているのだが、だからこそもっと警戒心を持って欲しい。
いや、警戒心を持つというより、むしろ、
(学習しろ!)
いつもの事なのに、どうしてこう毎回コロリと騙されるんだか。
最早人類の謎だ。UMAかアンタは。
でも彼女は、俺がこんな感情を抱いてることは知らない。
自分でも、こんなに嫉妬深いなんて知らなかった。
こんな熱く濁った感情、彼女に出会うまで知らなかったのだ。
だからこそ、腹が立つし、許せなかった。
俺がどれだけイラついてるか、分からせてやろうと思った。
やり方が陰湿になってしまったのは、それは俺が俺である限り仕方のないことだ。
倉庫へ片付けに行くさんに「手伝います」と言ってついていく。
相変わらず馬鹿なこの彼女が俺の悪巧みに気付くはずもなく、ただ「ありがとう」と笑っていた。
薄暗い倉庫に着いて、片づけをする彼女に俺は声を掛ける。
「さん、知ってますか?」
「え?」
上段に物を押しやりながら、こちらを振り返らずさんは答えた。
構わず俺はその背中に向かって言葉を投げかける。
「この倉庫って、“出る”らしいんです」
彼女がぴたりと動きを止め、棚に手を伸ばしたまま恐る恐るこちらに顔を向けた。
薄暗くてはっきりとは分からなかったが、おそらく蒼ざめた顔をしていたんだと思う。
「…な、なにが?」
「何がって、分かるでしょう」
「ちょ、やだ、若…!」
彼女はお化け屋敷だとか怪談だとかが大の苦手だった。
勿論それを分かった上で俺はこんな暴挙に出ているのだ。
だって、これくらいしなきゃ、胸に滾った怒りは収まらない。
そして、俺は怯えた顔をした彼女に更に追い打ちをかける。
「あ、さんの後ろに…」
「ちょ、ちょっと、悪ふざけもいい加減にしないと、怒るよ!」
「!!危な…ッ」
刹那、棚がガタッと音を立て、収納してあったものがガラガラと落下した。
よほど背後の気配に敏感になっていたのだろう。彼女は、
「きゃ、あああああ!!!」
「…………ッ!」
物音に驚いて、悲鳴を上げながら俺の胸にしがみついてきた。
咄嗟の事に身体が付いていかず、俺もそのまま後ろに倒れ込んだ。
同時に彼女の後ろにバサバサガタガタと物が落ちてくる。
落ちてきたのは彼女がしまおうとしていたネットだった。
網目に絡まって他の関係ないものまで一緒に降ってきたのだ。
アンバランスに積み重なった器具が時折音を上げ、キシキシと揺れていた。
俺の胸に顔を埋めた彼女は、震えていた。
同時に、ひっくひっくと嗚咽が聞こえてくる。
(ああ、もう)
これしきの事で涙を流す彼女に呆れながらも、やはり少し反省した。
震える彼女の背中をポンポンと叩きながら、俺はゆっくりと呟く。
「…すみません、苛めすぎました」
「わ…っ私がそういうの嫌いって、知ってる癖に…!」
顔を上げた彼女の頬は、予想以上に涙で濡れていた。
すみません、ともう一度謝って、彼女の涙を拭ってやる。
「…だって、面白くなかったんですよ」
「ふぇ…?」
「みんなにからかわれて、騙されて、その度に慌てふためいて…。そんなさんの姿、他の誰にも見せたくないんですよ」
「…わ、わか、し」
彼女はまだぐすぐすと鼻を啜ってはいたが、怒ってはいないようだった。
少し驚いた表情をして、涙の溜まった目で俺を見つめていた。
「あの人たちは、俺たちが付き合ってること知らないんだから、ホント気を付けてくださいよ」
「え、き、気を付けるって、何を?」
きょとんとして聞き返してくる彼女。
この人は自分のことを本当に何も分かっちゃいない。
自分の反応が男の目に物凄く可愛く映ってるなんて夢にも思っていない。
「とにかく、」
俺は肩を揺らす彼女をぎゅっと抱きしめた。
「そういうのは、俺だけにしといてください」
***
「でも、みんな付き合ってることは知ってるよ?」
「え!?」
(あんの先輩たち…!わざとか!)