永四郎は意外とやきもちだ。
妬かれること事態はいい、別に。全く嫉妬されないより。
でも、怒らせるようなことなのかそうでないのかという境界線が全く持って不可解なのだ。
「だから…っ喋ってただけじゃん!」
「“だけ”とは随分面白いことを言うね。あの男の肩に触れていたのは俺の見間違い?」
私たちの口論を見て、みんなは「ああまたか」といった感じで部室を後にする。
私と永四郎は恋愛における価値観がかなり違う。
お互い妬くポイントが違い、更にその嫉妬を表に出すものだから喧嘩は珍しいことではなかった。
それでも付き合っていられるのは、正直何故なのかは分からない。最早七不思議レベルの謎と言っても良い。
ともかく、なんで今、永四郎が怒っているのかというと、私が同じクラスの男子と喋っているときにボディタッチをしたから、らしい。
仲が良かったら、そんなものはスキンシップの範疇だ。
だから永四郎のこの怒りは私にとって理不尽以外の何物でもなく、逆ギレてしまって今に至る。
「ただ会話の流れでそうなっただけじゃん。そんなんで怒るとか意味分かんない。こないだ一緒にお茶しに行くって言った時はなんも言わなかったくせに」
「お茶なんて向かい合って座って話しているだけでしょう。大したことじゃない」
「大した……って、ちょっと、それって他の女の子とデートしたってこと?」
ああ、私はまた余計なことを。
話がややこしくなるだけだと分かっていながら、永四郎に食ってかかる自分を止めることが出来なかった。
案の定永四郎はハァとため息をつき、いつもよりも少し鋭い眼差しで私を見据えた。
「どうしてそうなるの。そもそも、今はそういう話をしてるんじゃないでしょ」
「だってそうじゃん。私以外の女の子と、平気でデートできるってことでしょ?」
「あのね、少しは話を聞きなさいよ」
「そっちだって、私の質問に答えてない」
「行ってませんよ」
「嘘」
「じゃあ行きました」
「……っ!」
「ホラ、どう答えても怒るでしょ」
分かってた。
永四郎はこうなることを見越して、収拾がつかなくなる前に話を戻そうとしてくれてたんだと。
でも今はその行動は逆効果だった。
“そら見たことか”とでも言いたげな永四郎の冷たい眼差しにより一層怒りが煽られる。
でも、だからって。
私はどうしようもなく子供で、我が儘で、自分勝手なんだ。
私の事が好きだったら、そっちから折れてよ。
私が満足するまで、納得するまで、足掻いて、言い訳をしてよ。
そんな風に思って、心にもない事を言ってしまう。
「もういい。別れる」
「……はい?」
「うざいから、別れる!」
「あのねぇ、思考が短絡的すぎ、」
永四郎がそこまで言葉を発したとき、私は思わずカッとなって右手を振り上げた。
誰もいなくなった部室にパンッと小気味の良い音が広がる。
永四郎は一瞬呆然とし、赤くなった左頬に手を伸ばした。
無言で視線をこちらに寄越してきた永四郎の表情は、怒ってるでも悲しんでるでもなく、ただ無表情だった。
やばい。
思わず殴ってしまったけど、こわい。こわすぎる。
「………、」
「…こっ…金輪際私に話しかけないで!」
虚勢を張ってるのを悟られないように、私は永四郎が何か言おうとしているのを遮ってそう言い放つと部室を飛び出して逃げた。
バクバクと脈打つ心臓を感じながら、私は走った。
走って走って、校門まで来たところで後ろを振り返っても、視界に入ってくるのは花壇に水をやるおじいちゃん先生とか、下校途中の日に焼けた男子生徒たちばかり。
永四郎のバカ。
追いかけてもこない。
私たちが喧嘩していたのはみんな知っているんだし、今日はマネージャーの仕事さぼってもう帰ってしまおうかなんて思い、ふと自分の違和感に気がついた。
……カバンがない。
何も考えずに飛び出してきたから、どうやら部室に置いてきてしまったらしい。
教科書なんかはどうにかなるにしても、財布を置いて帰るわけにはいかないし、そもそもバス通学の私は定期がないと帰れない。
私は制服のポケットから携帯を取り出し、カチカチとボタンを押していった。
必要な作業を終えてパチリと携帯を閉じると、その瞬間にヴヴヴと手の中のモノが揺れる。今まさに私がメールをした相手からだ。
「…もしもし?練習は?」
『きゅーけーちゅー』
「と言う名の、サボリでしょ」
『ひっでーの。心配やし抜けてきたんばぁ。…仲直りしてねーんさ?』
「ああ…ていうか、別れたから」
『…は?まさかやー』
「そのまさかですー。てことで凛くん、練習終わったらメールの件よろしく」
『えー…カバン?なんぎぃ。やだ』
「持ってこなかったら凛がこないだ裕くんの元カノとチューしてたこと言」
『1時間後に持っていきマス』
私の言葉を遮って、そのままプツリと通話は切れた。
人の弱みは握っておくものだな、と携帯についたストラップをくるくる回し校舎の中に戻りながら思う。
外に1時間もいるのもなんだかなあと思い、凛にメールを入れその辺の空いている教室で待つことにした。
「」
声のした方を振り返るとそこには「ん」と鞄を突き出した凛の姿。
ほとんど脅しだったのにあまり怒っていないみたいだ。良かった。
「早かったね。まだ1時間経ってないのに」
「あー。誰かさんのせいでブチョーの機嫌ひでーの」
凛はそう言いながら首をコキコキと鳴らした。
「みーんな怖がってちゃーぶるない帰ったばぁよ」
「永四郎は?」
「んー…そろそろ帰んじゃねーの?」
「そっか」
受け取った鞄を肩に掛け、凛と一緒に校舎を出る。
凛は監督や永四郎の事でぐちぐち文句を言いながらもバス停まで私を送ってくれた。
こういうスマートなところが女にモテるんだろうなぁなんて思いながら凛を見ていると、少し寂しそうな目と視線が交錯する。
「やーも永四郎もがーじゅーだなぁ」
「え?」
「…いんや。あんまし意地張りさんけーよ」
「……」
その言葉には何も答えず、私はただ立ち去る凛の後ろ姿を見つめていた。
意地はるなって言われても、もう18年間こうして生きてきたんだ。
今更簡単に矯正できるなら苦労しない。
なんだか悲しくなってきた。
永四郎の頬を殴ってしまったことを今更ながら後悔した。
道の向こうにバスの姿を捉え、私は鞄のポケットに手を突っ込んだ。
「…………あれ?」
ない。
定期がない。
最悪だ。ただでさえ本数の少ないバスなのに。
私は足早に学校へ向かう道を戻りながら、再び携帯を開いた。
電話越しに凛に確認してみると、部室の机の上に私の定期らしきモノがあったとのことだ。
全くもって使えない、この男。
だからといって取りに行かせるわけにもいかず、テニスコート脇の部室へと足を進めた。
まだ日が沈みきっていないとはいえ、部室の中は明かりをつけないと少し薄暗い。
光の漏れることのない部室を見て、永四郎はもう帰ったのだと、そう思った。
それなのに。
扉を開き電気をつけて部室の中へと足を進めるも、机の上には何も見あたらなくて、じゃあ下を探そうと腰を屈めたその瞬間に、
「探しているのは、これ?」
突然背後から飛んできた声に私の心臓は弾け飛びそうなくらい脈打ち、反射的に立ち上がろうとした身体が机によって押さえ込まれた。
つまり、頭を強打したわけで。
「〜〜〜〜〜っ!!」
声にならない叫びを携え、そのまま机の下にうずくまると、部室の明かりが1つの影に遮られる。
それが誰の影かなんて考えなくても分かった。
「え、えいしろ…う」
逆行で表情がよく見えない。けど、上機嫌でないことは確かだ。
顔をぐっと近づけられると、眼鏡を外した永四郎の髪からぽたりと水滴が垂れ、姿が見えなかったのはシャワー室にいたからだと理解した。
「それで、」
低い声と共に目の前に掲げられたのは見覚えのある四角い入れ物。
「コレが欲しいんじゃないの?」
「………!」
永四郎は私の体を囲むようにして床に手を付き、じりじりと近寄ってくる。
「ど、どいて、よ」
「どうして」
「ち、近い」
「嫌なら、俺を突き飛ばして逃げればいいでしょう」
そう言うと永四郎は私の肩に顔を埋めた。
濡れた髪が首筋に触れ、びくりと身体が震える。
「ほら、どうしたの」
永四郎の息が首のラインを撫でると、もう、
「逃げられるものなら逃げてみなさいよ」
私はただの被食者に成り下がる。
ああ、そうか。
この関係こそが、私たちを繋ぎ止めていたんだ。
「逃げられるもんなら逃げてみな」
(別れるなんて、絶対に許さない)