例の手術ドッキリ事件から1週間。
謙也が彼女と別れてから2ヶ月近くが経っていた。
卒業まで1ヶ月を切った。
白石と謙也もさすがにそろそろ引退する準備をしている。
白石は部長の引き継ぎ、謙也は部室に持ち込んだ大量の私物の片付けに追われていた。
結局この3年間、私以外にマネージャーの入部者はいなかった。
テニス部のメンバーは勿論人気があるのだけれど、意外に仕事が多く大変なのでマネージャーになりたがる子は毎年ほとんど皆無。(仕事できない=メンバーに嫌われると思われてるってが言ってた)
来年誰かが入ってくれることを期待して、マネージャーの仕事内容をまとめたノートを部室に置いておいた。
私の引き継ぎは、これだけ。
自分の仕事が終わったので、最近では謙也の手伝いをしている。
謙也の私物は自分のロッカーに留まらず、他のメンバーのロッカー、壁やベンチの下にまで及んでいた。
「こんなに・・・持ち込みすぎだよ、謙也」
私が呆れて言うと、謙也は誤魔化すように「堪忍」と笑った。
結局、私は自分の気持ちを謙也に言えないでいる。
告白なんて絶対に出来ない。ありえない。こわすぎる。
それとなく謙也の反応を窺うことしかできなかった。
クリスマス以来、私は謙也を「お兄ちゃん」とは呼ばなくなった。
何かが変われば謙也が気付いてくれるかもしれないと思ったから。
でも、言葉なんかなくても「お兄ちゃん」に対する感覚は強く根付いていて。
私がいくら好意を示した所でそれは「お兄ちゃん」への物となんら変わらなかった。
腕に触れても、手を握っても、抱きついても、それは兄妹の戯れにしかならなかった。
逆に謙也が好意を示してもそれは同じ。
例えば謙也が私を包みこんでくれても、頭を撫でてくれても、嬉しい言葉をくれても、
以前白石に対してがしたように、頬を染めることは出来なかった。
これは「お兄ちゃん」からの言葉なんだ、「お兄ちゃん」だからこその行為なんだ、とただ切なくなるだけ。
謙也の荷物を半分持って謙也の家に向かう今も、私たちは兄妹でしかない。
いつから好きだったんだろう。
そんな事を考えても、いつも答えは見つからない。
ただ、謙也のお兄ちゃんとしての像がここまで確固たるものになってしまう前に、どうして気付けなかったのだろうと。
今更それを思ったところでどうしようもないのに。
「いつもスマンなぁ、」
「何、いまさら。別に気にしないで良いよ」
謙也の荷物を持って、何度この部屋に足を運んだだろう。
けれど、それも今日で終わり。荷物は全部片付いたから。
「ちゃんと片付いて良かったね」
「せやな。卒業1週間前とか、ほんまギリギリやったわ。ありがとうな」
笑顔で首を振って、「それじゃ、帰るね」と立ち上がろうとしたら、謙也に腕を掴まれた。
いつもより少し強く握られた手に違和感を覚えながら、私は謙也の方を振り返る。
「、ちょお聞きたいんやけど」
「うん、なに?」
「…ホンマは、財前と付き合うとったりせえへん?」
「え、光と?」
私たちが仲良く見えるのは今に始まったことじゃないし、別に表面的に何かが変わったとかそういう事もないはずだ。
寧ろ最近光は忙しいからあまり一緒にいることもない。
「付き合ってないけど」
「ほんなら、何であの日、財前とキスしとったん?」
「…え?」
背筋にひやりと寒気が走る。
なに。
なに、言ってるの?
頭の中がぐるぐると回っている感覚。
視界がぐにゃりと歪み、まっすぐに立てていないような気がする。
半年以上も前のあの日。
手に持った蜜柑。
光の切れ長の目。
謙也の見せた、表情。
瞬時にその全てが脳裏に甦り、あの時一瞬だけ感じた違和感が、パズルのピースを止めたみたいにしっくりと胸に落ちる。
見られていたんだ。
そう脳が理解して、頭の中が真っ白になる。
実際キスなんかしてないけど、どう言えばいいんだろう。
下手に慌てるのも、怪しい気がする。
嘘をついてるなんて思われたくない。
とりあえず、何か言わなくちゃ。
そう思ったけど。
「ち、がくて、あれは…ひ、光が急に…」
唇が震えて上手く言葉が出ない。
やましいことなんて何もない筈なのに、こんなにも怖いのは、謙也の手の力がいつもより強いせいかもしれない。
「…やっぱ、しとったんや」
「ち、」
「財前のこと、弟やと思っとったんちゃうんか」
否定の言葉は謙也の声に飲み込まれる。
なに、なんで。
怖い。
こんな謙也、知らない。
「な、なに、怒ってるの…?」
「そ、んなん、」
私の怯えた顔を見て謙也は一瞬言葉を詰まらす。
歯痒そうにギュッと唇を噛んで俯き、少しだけ声を荒げて、言った。
「俺は、嫌や。そんなん、気持ち悪いわ」
「…っ!」
気が付いたら私は謙也の手を振り払っていた。
謙也が驚いて顔を上げる。
「なんで、そんなこと…ッ」
涙がじわりと滲むのが分かった。
「血なんか、繋がってないじゃん…!」
「気持ち悪い」という言葉はきっと、光と私だけに向けられたものではなくて。
「私と謙也だって…ッ」
そこまで言って、私は堪らず謙也の部屋を飛び出した。
どうして。
私は、妹じゃ嫌なのに。
どうして私たちは、ずっと兄妹だったんだろう。
どうして、謙也はずっとお兄ちゃんだったんだろう。
固く結びついた兄妹の絆は、一体どうすれば解けるんだろう。
ぐるぐるとそんな事を考えて、満たされないこの感情に、初めて泣いた。
***
「せやかて…気持ち悪いもんは気持ち悪いわ」
(けど、泣かせた)
(…アホやな、俺)