ある休日の練習日。
お昼の休憩時間。
お弁当を食べ終わった私は部室から出て、外のベンチに座ってオサムちゃんに貰った蜜柑を剥いていた。
さっき午後の練習のことを相談しに行った時に、私にだけこっそりくれたのだ。
果物は大好きだが、その中でも蜜柑は特に好きだ。
冬のこたつのお供、なんていうけど、年中だって食べられる。
蜜柑の味を想像しながら丁寧に皮を剥くこの瞬間も好き。
私は嬉々とした表情を浮かべてぺリぺリとそれを剥いていた。
皮を剥き終わって、いざ食べようとした時、後ろから声を掛けられた。
「せんぱい、ええもん持ってますね」
「ひぁッ!?」
耳元にかかった息に飛びあがって後ろを振り返ると、背中を丸めてベンチの背に凭れ掛かる光の姿。
蜜柑に食いつこうとしている私をじっと見つめて、少しだけ口を歪めて開く。
「えろい声出さんとってくれません?」
「だ、出してないよ、ばか!」
見つかっちゃった…。
みんなにバレたら絶対取られるからわざわざ外に出てきたのに。
私は「あーあ」と溜息をついて、蜜柑を半分に割った。
その片割れを光の口にきゅ、と押し込んでやる。
光は少しご機嫌になって、突っ込まれた蜜柑に手を伸ばす。
そのまま歯で一粒一粒を器用に食いちぎりながらもぐもぐと口を動かしていた。
私はそんな光の姿を確認して、もう一度前方に向き直る。
初めてのキスはレモンの味、とか言うけど、実際はどうなんだろう。
蜜柑食べた後だったら蜜柑の味がするのかな、やっぱり。
蜜柑を頬張りながらふと思う。
そもそも何で初キスがレモンの味なんだろう。
一体だれが言い出したんだか。
何を隠そう、私はキスをしたことがない。
彼氏がいなかったわけではないが(と言ってもそれも数年前の話)、そこまで発展しないうちに別れてしまったり、いまいち私が踏み切れなくて拒否し続けているうちに終わってしまったり、まあそんな感じだ。
でももちろん、興味はある。
知識で知ってるだけじゃ、物足りない部分も。
実体験がないのに知識ばっかりあるって言うのもなんだか変態っぽいし。
まあこの知識は一重に白石とか白石とか白石の影響なんだけど、それはまた別の話。
「キスって、どんな感じなのかなあ」
ぼんやりとそんな事を考えていたら、どうやら口に出てしまったらしい。
後ろにいる光からは何の反応もない。
あ、やばい。
また「キモイ」とか思われてるかも。
私は慌てて「なんて、ね」と取繕うように笑う。
どっちにしても「キモイすわ」とは言われる気がする。
しかし、背後から聞こえてきたのは予想外の言葉だった。
「…試させてあげましょか」
「え、」と振り返ると、次の言葉を紡ぐ間もなく光の左手が私の頬を包むようにしてうなじに添えられた。
次の瞬間、私の視界は光の長い前髪と、そこに隠れた切れ長の目のラインでいっぱいになる。
「…!?」
私は眼を見開いたまま、その閉じられた綺麗な目を呆然と見つめていた。
やがて離れる感触。
視界が開け、光が口に咥えていたそれをパクリと飲み込んだ。
「…う、ぇ?」
「ホンマにキスされる思いました?」
ポカンとした表情の私に、光が口の端を上げて意地悪く笑う。
私の唇に触れたのは、光の唇ではなく、そこに挟まれた蜜柑だった。
「び、びっくりした…」
怒ることも忘れ、私は呟いた。
心臓がドクドクいってる。
「ほ、ホントにされたかと思った」
経験がないとはいえ、蜜柑と間違うなんて情けない。
一瞬でも「キスされた」と思ってしまったことと、光に対してドキドキしてしまった自分が恥ずかしくて、赤く染まっていく顔を隠すようにして私は頬を覆った。
「ま、蜜柑の感触と同じ言いますからね」
「そ、そうなんだ」
真っ赤な顔で光を見上げる。
光は涼しい顔をしてそんな私を見つめ返してきた。
何でそんなしれっとしてんのさ!うう、悔しい。
見つめ合ったまま数秒間。
ついさっきまで意地悪く笑っていた筈だったのに、いつの間にか少しだけ眉間に皺を寄せて、面白くなさそうな顔をしている。
何か、言いたいことがある時の表情だ。
どうしたんだろう。
それとも、顔を歪めたくなるほど私変な顔してる?
なんて口火を切ろうか考えあぐねていたら、先に光が口を開いた。
「気になるんや?」
「…え?」
「そないに気になるんやったら、謙也さんに直接確認したらええやないすか」
「!」
どうして。
そう口を開こうとしたら、光の背中越しに謙也と白石の姿が見えた。
いつの間に出てきたのか、部室の入り口前で何やら話し込んでいる。
真っ赤な顔を見られたくなくて、私はあたふたと何か顔を隠せるものを探した。
練習中はいつも首にかけているタオルも、今は部室に置きっぱなしだ。
とにかく火照った顔を冷やそうとして、私は自分の掌や手の甲でぺたぺたと頬を触ってみた。
「…何しとんねん」
光は特にさっきの発言を引っ張ることもなく、呆れたような表情を見せる。
「ひ、光が悪いんじゃん!顔ちょう熱い…!」
部室でみんなの生着替えを見たって、白石にえろい事言われたって、私は滅多に顔を赤くすることなんてない。
今のこの表情を見られたら散々いじられる結果になるのは目に見えている。
光から視線を逸らすと、謙也と白石が話を終えてこちらに向かってくるのが見えた。
うわああああ!やばい、こっち来る!
光はちらりと私の視線の先を捕えると、「ふーん」と呟いた。
ふーんじゃないよ馬鹿あぁあ!
責任取れ!つうか助けろ!
心の中でそう叫んで刹那、熱を持った自分の手の代わりに、ひんやりとした感覚を頬に感じた。
視線を光に戻すと、こちらをじっと見つめる光。
その手は私の頬を優しく包みこんでいた。
「なっ、何してんの…?」
「俺、体温低いんすわ。顔の熱取ったろ思て」
「い、い、いらないいい!!」
いつもだったらこんなスキンシップで顔を赤くしたりしない。
けど、何故だか今は相乗効果が働いているらしい。
なんか余計に体温上がった気がする。
光の両手首を掴んで剥がそうとするが、光がそれを許さない。
逆にその行為で頬に添えられた手に力が込められて、顔をぎゅうぎゅう潰された。
ちょ、痛い!マジ痛い!
ていうかこれはこれで嫌なんですけど!
今絶対私ブサイクな顔してる。
あぁ、もうなんか泣きたい。
「こーら財前、あんま苛めるんやない」
近くまで来た白石がやんわりと光の手を制止する。
さっきまでこっち来るなとか思ってた白石の姿が今は救世主に見える。
ありがとう白石!
早く光の手を引っぺがしてくれ!
「せやけど、この顔ええと思いません?」
「んんーっ、せやなぁ、ええ感じに潰れとってかわええなぁ」
「!?」
白石は光の腕から手を離し、「エクスタシーや」などと言いニコニコと笑っている。
前言撤回!ばか白石!
こいつ絶対楽しんでる!
私は他に助けを求めようと、白石の数歩向こう側に見える謙也に目をやった。
ギチギチと締め付ける光の手が苦しくて耐えられない。
「けんにゃ〜!」
拘束された口を何とか動かして呼びかけると、謙也が一瞬だけビク、と肩を震わせたように見えた。
「ん、あぁ…」
けれど次の瞬間には、いつも通りの笑みを浮かべていた。
私の顔を見て、ぷっと吹き出す。
「おま、なんちゅー顔しとん」
本来ならすぐに白石と一緒に私に絡んできそうなものなのに、その時の謙也は少しぼんやりした調子でこちらを見ていた。
そんな謙也の違和感に、いつもならすぐに気が付くのに。
とにかくその時の私は、なんだかんだ赤面顔を上手くごまかすことが出来たことに安堵してしまって
謙也の示した一瞬の違和感を特に気にすることなく終わらせてしまった。
***
「ぁ、はあ、く、苦しかった…」
「………」
「…な、何?(嫌な予感…)」
「あかん、めっちゃエロい。押し倒してええ?」
「キモッ!こっちくんな!」