人の部屋に勝手に入ってはいけません。
人の物を勝手に開けて中身を見てはいけません。
小学生の時に教えられるような、そんな常識。
小さい頃に躾けられた常識はどうして大人になると麻痺してくるんだろう。
今日ばかりは、小学生のようなピュアな心を持っていれば良かったのにと心の底から思った。
濡れ髪の君は別人のよう
ノックしたドアの向こうから返事はなかった。
(寝てるのかな?)
まだ夜の9時だが、健康オタクの蔵ノ介なら、その可能性も否定できない。
私はゆっくりとドアを開けて、その隙間から部屋の中を覗き込んだ。
部屋の中には誰もいなかった。
蔵の寝込みを襲うのも楽しそうだったのにな、
なんて物騒なことを考えながら私は部屋の中に足を進める。
相変わらず綺麗な部屋。
蔵ノ介の部屋に入るのは初めてじゃないけど、
そういえばこうやって部屋の中をじっくり見ることなんてなかった気がする。
「…あれ、」
ふと目に留まったのは、ベッドの上に落ちた小さなメモ。
すぐ上に制服が掛けてあるから、きっとポケットから落ちたのだろう。
にしても可愛らしいメモだなあ。
女の子から渡されたのかな?
授業中にふと回されたメモを広げたら『スキ』の二文字が書いてありました、とか?
…いや、蔵ノ介に限ってそれはない。
完璧すぎて近寄られがたいのはよく知っているし、
そもそも自分が告白された形跡などを蔵ノ介は絶対に残さない。
いろいろ突っ込まれたり、「またフッたんかー!」とかってからかわれるのが嫌らしい。
大方、校内新聞で連載しているなんとか聖書っていうヤツのネタを思いついて、近くの女子にメモを貰って書き残した、というところか。
私の中の蔵のイメージは、そういう、ちょっとズレた感じ。
クールでかっこよくてミステリアスなんてのはただの仮面。
仮面を脱いだらその正体はありふれた男の子。ちょっとヘタレの。
(ヘタレ蔵…)
くすりと笑って折りたたまれたそのメモを広げると、そこにはおよそ蔵ノ介のとは思えない筆跡が残っていた。
――――――――――――
うん、付き合えることになって
ホントに嬉しい!
これからもよろしくね?
――――――――――――
‥‥は?
告白とか、そういうんでもなくて。
なんかもう、付き合うってことに、なってるんですけど。
ていうか、何で私はこんなショック受けてるんだろう。
だって私は蔵ノ介の彼女でも何でもない。
好きって言ったって、お気に入り程度だと思っていたし、
蔵ノ介が私を好きなのを分かった上で彼の反応を堪能しているだけのつもりだった。
呆然とベッドに座っていると、ガチャリとドアノブを捻る音がした。
私は反射的に手に持っていたメモを服の中に隠す。
濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら部屋に入ってきた蔵ノ介は、私を見てぴたりと動きを止めた。
「…なんでここにおるん」
「は、話があって…」
「やからって、普通勝手に人の部屋入らんやろ」
「すいません…」
私の覇気のなさに気付いたのか、
蔵ノ介は逃げることはせず、ハァと溜息をついて部屋のドアを閉めた。
「話って何や」
「あの…何でそんな離れてんの?」
蔵ノ介はベッドから一番離れた壁際にもたれかかっていた。
どんだけ警戒してんだ。
「あの、もうちょっと近」
「嫌や」
髪を拭くのに夢中になってるふりをして
目も、合わせてくれない。
遠い、なぁ。
身体を重ねたからって、繋ぎとめたつもりでいたのかもしれない。
自分では、ちょっと生意気な蔵ノ介を苛めてやりたくて
力でも身体の大きさでも敵わない彼に何でも良いから勝ちたくて
深い意味なんて何もない行為だと思っていた。
知らなかった。
私は結構真面目に恋をしていたらしい。
そう気付いた途端に、なんだかどうしようもない虚無感に襲われた。
「え、ちょ、泣くことないやん」
「へ?」
ぽた、と膝に落ちる水滴を見て、それが自分の涙だと気付いた。
「あーもう、何してんねん」
蔵ノ介はティッシュを2,3枚取ると、ベッドの私の隣に腰かけ、涙を拭いてくれた。
「ほら、チーンしい」
お母さんか!と恨めしく蔵ノ介を見上げ、言われるがままに鼻を咬んだ。
「何やねん?話って、悩み事か?が泣くやなんて相当重い悩みなんやろなぁ。ま、話してみ」
「蔵が…」
「ん?」
「蔵が私のこと避けるから…!」
「…は?」
蔵ノ介は髪から垂れる雫にも気付かず、呆気に取られている。
普段の私なら、蔵ノ介にちょっと避けられたくらいでこんなに落ち込むことはないからだろう。
「私、」
でも、仕方ない。
自分の気持ちに気付いてしまったんだから。
「蔵が、好きだよ」
蔵ノ介の反応を見るのが怖くて、私は俯いた。
数秒の沈黙の後、蔵ノ介の口から深い溜息が洩れる。
「あ〜〜〜〜も、何なんジブン。俺の事、遊びや思っとたんちゃうん?」
「ん………。そう、思ってたんだけど」
あの可愛らしいメモを見て、蔵ノ介の隣で笑う少女を想像したら、嫌だった。
私だけの蔵でいて欲しい。
私だけを好きでいて欲しい。
この歪んだ感情を恋と呼ぶのなら。
「彼女なんて、作っちゃやだ」
「…………はあ?」
再度素っ頓狂な声を上げる蔵ノ介。
「なんやねん彼女て。おらん言わんかった?俺」
「…だって、これ」
服の裾から隠したメモを取り出すと、蔵ノ介が若干身を引いた。
咄嗟とはいえ、やっぱりこんなところに隠すのはやめるべきだったかもしれない。
蔵ノ介は私からメモを受け取ると「ああ…」とだけ呟く。
「ご期待に添えんで申し訳ないんやけど、これはそんな甘ったるいメッセージとちゃうで」
蔵ノ介の話はこうだった。
クラスの女の子が同じくクラス内の男の子を好きになって、
その男の子と蔵ノ介は部活仲間でもあったから協力してあげたと。
無事、意中の彼と付き合うことになったその女の子から、授業中に回されてきたのがこのメモ。
これからも何かあったらよろしくね、という意味らしい。
しかし、どうしてこのメモを蔵が大切に持っているんだろう。
疑問に思って尋ねると、「アイツの茹蛸顔、拝んだろ思て」とニヤリと笑った。
友達の照れた顔を見たいとか、蔵も結構良い趣味をしてる。
「わかったか?」
「うん…蔵も大概変態だってことだね」
「…まだそないなこと言うか、こん口は」
「え、あっ」
ギシ、というスプリング音と共に、ぐるりと視界が反転する。
あれ、デジャヴ?
その続きを考える時間もなく蔵ノ介の唇が降ってくる。
「ふ…んぅっ」
いきなりのディープキス。
私の口の中を一通り荒らすと、チュッと音を立て唇が離れる。
ゆっくりと目を開くと、蔵ノ介がこちらをじっと見ていた。
「お前は、俺のこと好きなんやな?」
「う、…うん」
「ほんなら、問題ないわ」
いきなり積極的に首筋に顔を埋める蔵ノ介に驚く。
この間とはまるで別人だ。
私の下で、あんなに喘いでたじゃん。
「ちょ、いきなりどうし…ッぁ、」
首筋にチリッと痛みが走る。
見慣れない蔵ノ介の姿に焦り、私は身を捩って抵抗をする。
どうして私が襲われてるんだろう。
逆だよね?私襲う方が好きって言ったよね!?
「遊びは嫌や。俺は常にお前の一番でおりたいんや」
耳元で蔵ノ介がそう囁く。
なにそれ。なにそれ!?
途端に恥ずかしくなって、しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。
「わ、私、襲う方が好きって、い、言ったじゃん!」
「そんなん俺かて同じや」
私の非力な懇願はあっという間に一刀両断される。
蔵ノ介は目を細め、じっと私を見降ろし、その綺麗な口を動かした。
「今日は、その顔に微塵の余裕も残さへんから」
濡れた髪で口角を上げて笑う蔵ノ介は怖いほどに妖艶で
初めて、背筋が凍りつくほどの何かを感じた。
「笑ってなんかいられへんほど、メチャクチャにしたる」