顔面クリーンヒットなんて、漫画の中でしか起こらない出来事だと思ってた。
もちろん現実には「良い音」なんてしないわけで、
とりあえず、すごく、痛そうな音がした。
言葉よりも行動で
そもそも今日がなんの日かというと、氷帝学園の球技大会だ。
自分の所属する部活の種目には出てはいけないことになっており、それはマネージャーも例外ではなかった。
テニス部のメンバーは4割卓球、2割バスケ、2割バレー、残りがソフト、サッカーなどに散らばるのが毎年の傾向だ。
意外にも半分近くが卓球を選択する。(テニスと似てるから、らしい)
私はというと、バスケに参加することになった。
別にこれといった理由があるわけではない。
というより、自分の意思で選んですらいない。
ただ同じクラスの跡部に、気付いたら名前を記入されていた。
勝手に書き加えておきながら、「せいぜい俺様の足を引っ張らないようにするんだな」って、何様だお前は!
そう言ったら「跡部様だ」とさらりと返された。
午前の部は順調に勝ち進んだ。
跡部にパスを繋ぎさえすればあとは跡部が次々とシュートを決めて行く。
悔しいけど、やっぱり俺様跡部様はスポーツ万能らしい。
「跡部って、苦手なこととかないの?」
お昼の為教室へ向かいながら跡部に尋ねてみた。
「アーン?あるわけねぇだろ。俺様は完璧だからな」
「いや、絶対何かあるでしょ!神は万物を与えないよ」
「俺様は例外なんだよ。神をも超えんだよ」
「うわー神への冒涜だよそれ」
けらけらと笑いながら歩いて行くと、前方に見覚えのある人影が見えた。
バスケットボールを脇に抱え、クラスの友人と思しき者と何やら小突きあっている。
自分のことをなかなか話そうとせず、少し人見知りで、無愛想な後輩。
けれど、私は彼のことが嫌いではなかった。
「日吉」
声を掛けると、サラサラの髪を靡かせて彼はこちらを向いた。
「先輩……と、跡部さん」
付け足したように跡部の名前を呼ぶと、当の本人はあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「…お前もバスケか」
「ええ、まあ。下克上のチャンスですしね。それに――」
日吉が一瞬、こちらを見た気がした。
「売られた喧嘩は買う主義ですから」
跡部はフン、と鼻を鳴らし、「良い度胸だ」と笑って見せた。
「だがな」
突然、跡部が私の肩をぐい、と引っ張った。
「わっ」
「お前が俺達に勝つことは、ねーよ」
跡部はよく、こうやって私の肩を抱く。
見せつけるためだ。
と、言っても、彼女自慢とかじゃない。そもそも、私たちは付き合っていない。
ただ、女の子が寄ってくるのがめんどくさいと言っていた。
つまりは、虫よけ。
お陰でこっちにも男が寄りつかない。
別に誰かと付き合いたいとか思ってるわけではないけれど、いい迷惑だ。
日吉はそんな跡部の言動を受け、少しだけ顔を歪めて見せた。
いつもなら気にしないけれど、今、跡部に肩を抱かれるのは酷く嫌な気分がした。
「…午後の第一試合、楽しみにしていますよ」
日吉はそれだけ言うと、再び私たちに背を向けて行ってしまった。
私は跡部の手を振り払い、グラウンドの方に顔を向けた。
デカデカとした電光掲示板には、午後の対戦表が種目毎に表示されている。
バスケの最初の試合は、私のクラスと日吉のクラスとの対戦だった。
普通に試合をしていた筈だった。
ただ、跡部にパスを繋げる。
そうすれば跡部がシュートを決める。
そういう筋書きの筈だった。
でも、その時は、私の目の前には一人の後輩の姿。
1つ年下といっても私より断然背は高いわけで。
日吉の姿に遮られて、跡部の姿なんてよく見えなかった。
それでも跡部は「イイからこっちに投げろ!」とか「モタモタすんな!」とか言うもんだから、私はパニックになりながらとにかく声のする方に向かってボールを思いっきり投げてみた。
次の瞬間聞こえた音は、
毎回聞こえる、シュパンって手に収まる音ではなく、
鈍く、嫌な音だった。
ぽたり、と赤い水滴がフローリングに落ちる。
次の瞬間、顔を押さえた日吉ががくんっと膝をついた。
一呼吸おいて、試合の中断を告げる笛の音が響き渡る。
「ひ、日吉っ」
私は顔から血の気が引いていくのを感じながら、日吉に駆け寄った。
「大丈夫!?」
コートの外から投げてもらったタオルを受け取り、それを日吉の顔に宛がう。
「先輩…ホントあなたって人は…実は狙ったんじゃないんですか…」
渡されたタオルをギュッと鼻に押し付けながら、日吉はそう呟いた。
「ち、違うよ!でも、ごめん…」
「謝るのは後で良いんで、ちょっと、肩…貸してください」
慌てて日吉を立ち上がらせると、少しだけ足元がふらついてるみたいだった。
軽い脳震盪かもしれない。
そのまま日吉を連れて保健室に向かおうとすると、跡部の怒声が聞こえてきたけど、無視!
私のせいで怪我させちゃったのに、放っとけるわけない。バカ跡部!
「それじゃあさん、私はグラウンドの方に戻るから、日吉くんのことはお願いね」
「あ、はい」
保健室の先生は私にそう言い残すと忙しそうに走って行ってしまった。
沈黙が漂う部屋。
聞こえるのは、窓から入ってくる風の音とベッドの上にいる日吉の少し苦しそうな息使いだけだった。
「ほんっと、跡部って自分勝手だよね」
氷を入れた袋を日吉の顔の上にタオル越しに置いてやりながら、私はそう話しかけた。
「………そう、ですね」
日吉はそう返事をしたけど、本当に聞こえてるんだろうか。
タオルに隠れて表情が見えないから良く分からない。
私の胸は、再び申し訳なさでいっぱいになった。
「後輩なんだから、少しくらい心配してくれても良いのに」
「……きっと、そんな余裕ないんですよ…俺に対しては」
口だけを動かして日吉は言う。
「…なんで?日吉が下克上狙ってるから?」
「………そうですね」
「へえ。私の前ではいつも余裕ぶってるけど、実はそうでもないんだ?」
くすくすと笑いながらズレた氷を直してやると、日吉の手が私の手首を掴んだ。
「え…日吉?」
「…先輩」
そのまま私の手ごとタオルと氷を退け、ゆっくりと起き上った。
「血は…」
止まったの、という言葉は、口に出す前に手で静止される。
「跡部さんばかり、見ないでください」
日吉はゆっくりと私に視線を移して、確かにそう言った。
「……え?」
「俺が狙ってるのは、下克上だけじゃないんですよ」
次の瞬間感じたのは、唇にぶつかった柔らかい感触。
たった一瞬、ほんの少し触れただけだったけど、私の思考が停止するには充分だった。
感じていた温もりがゆっくりと離れる。
ぱちりと目が合うと、日吉はボボボっと顔を赤く染め、ぱっと視線を逸らした。
そのまま先ほど横にどけた氷とタオルをひっつかむと、
赤面した顔を隠すかのようにして再びベッドに横になる。
現実に引き戻された私は、鼻から下だけ見えている日吉に問いかけた。
「……つまり日吉は、私のことが好きなの?」
日吉は少しだけ口を歪めた。
「…っあそこまでした人間に、普通、それを聞きますか?」
もう日吉は、首まで真っ赤だった。
―――愛しい。
日吉のその姿を見て、そんな感情を覚えた。
……ああ、恋する気持ちって、こんなんだったかな。
「だって、ハッキリ言ってくんなきゃ、分かんないよ」
「…察してください」
口に出すのが苦手な日吉らしい返答。
そんな日吉の性格は知ってるし、嫌いじゃない。
でもね、
日吉がそうなら、返答だってそうなるよね。
「言葉にするのが恥ずかしいのは、日吉だけじゃないんだからね」
少しだけ笑って、私はタオルから唯一露出している部分に口付けた。
顔を茹でダコのように真っ赤にして、慌てて飛び起きる日吉を想像しながら。