夢の宴 自分の家のドアノブに手を掛けたまま温子は躊躇した。 あの日以来いつも喪失感があった。 体は手の届く場所にある。心臓も動いている。だが彼女は自分の息子が「ここ」にいないことを知っている。 螢子の夢の話の通り、一見眠っているだけに見える幽助の身体に「中身」が入っていないのは、よく分かる。皆が寝静まった真夜中だと特に。家の中に人の気配がないのだ。誰かの声が欲しくて付けたテレビの一瞬の無音、そんな隙間があったことを温子はこの十四年忘れていた。 いくら体が生きていても、彼女が会いたい、大切な、魂とでも呼ぶべきものが在るのは触れることのできない空の上。物言わぬ息子の身体しかないこの家にいると押し潰されそうな孤独を感じた。 周りの家の生活音に囲まれると裏腹に物音がない自宅の静けさに世界中から見放された気がする。真夜中はまるでたった一人取り残され子供のように心細くてたまらない。どちらがまだマシな気分なのだろう。まだ分からない。 分からないまま帰った、日付をまたぐ今の時刻、近くに人の気配はなかった。 「ただいま〜」 おかえりと返す者など誰もいないことが分かっていても温子はわざとそう言って家に入った。 あちらこちらで飲み歩き数日振りの帰宅。以前なら息子が鬱陶しそうにではあったが何か言葉を投げて寄こすこともあったが未だ眠ったままなのだろう。家の中は静まり返っている。 「……幽助?」 だが何かが、いつもと違う気がして恐る恐る幽助を寝かしてある部屋を覗き込むと、彼はいつもと変わらず目を閉ざして規則正しい呼吸をしている。 何も変わらないことへの失望は、すぐに無事今日も彼が息をしていることへの安堵になった。 数え切れない人々が願い叶えられなかった奇跡が起こるとどうして信じられるのだろう。息子を失った母親は彼女だけではないというのに。 だが螢子の夢の話を、信じていいとあの日以来何度も、目の前の幽助の体温と心臓の音が教えてくれた。 昼間に来た螢子が直し忘れたのか、少し捲れた布団を見て思い出し、温子の強張った表情から笑みがこぼれた。 そうよね。コイツ寝相悪かったのよね。 以前と違いきちんと仰向けになったまま眠り続けている幽助は本来の寝相の悪さを全く見せない。それが少し布団が乱れていただけで、何も変わっていないように、眺めていればすぐにでも目を覚ましそうな気がしてきてしまう。 上半身をベッドに預け間近で顔を見た。そっと触れるとその頬はまだ子供の柔らかさを持っている。 失っていない。 息子を、幽助を失ってはいない。 触れてみた幽助は確かに温かく実感を伴って「生きて」いた。酔っ払いの夢ではなく。 何度確認しても、寝て起きる度に夢を見てるのか疑ってしまっても、幽助が冷たくて硬くて寂しく悲しいものになっていることはもはやない。 前髪をかきあげてやるとさらさらと指の間を滑っていく。 大丈夫だと理解して、なのに何の反応もないことに寂しくなってしまう。贅沢だ、と自制をしようとしても、温子は思ってしまうことをやめられない。ただそばで戻ってくるのを待っていてやる。そんなことすら出来ない母親なのにと自分が情けなくなりながら。 コイツの憎まれ口を聞きたい。 切に思った。 あたしに母親の資格はないだろうけど、も一度だけ幽助の母親になるチャンスをくれないか。 そんなことを何に対してかは分からないまま願いたくなって、らしくないと温子は自分を笑ってしまう。 何だか湿っぽくなってしまった。 視界を遮る前髪をかきあげながら温子はため息をついた。 飲み直すか。いや、もう少し。 シーツに頭を乗せ温子は目を閉じた。 出来ることならそのまま寝てしまいたかった。だが眠れず、変わらない幽助の寝顔を眺めながら酒を飲んだ。たまにしか息子の顔を見に来ないのに、帰ってくればいつだって呑んだくれてるこんな自分に心底失望しながら。 酔いながら相槌を返さぬ相手に愚痴り、次第に腹が立ち、「いい加減に起きやがれ」と肩を揺すると、そこからはいつもと展開が違った。 幽助が目を覚まし、他愛ないことを話し、殴られて幽助は照れくさそうにへへへと笑った。 息子に笑い返しながら、ああこれは夢だと温子は思った。 一緒に飲んでいる酒の味が分からない。何故だろう? 息子に会えた喜びから? きっと違う。浮かんだ疑問への問いを即座に温子は否定した。 こんなろくでなしの母親のもとに奇跡は訪れない。願いを叶えてくれる誰かはあたし達のことは見てくれない。 だからこれは夢だからなのだろうと。本当は眠っているのに、眠れない夢を見ているんだろう。酒でぼんやりしながら、せめてもと、温子は願った。 出来るだけ長く夢が醒めないことを。 目を覚ますと朝だった。隣りにはあるはずの幽助の寝顔はなく、ベッドにもたれたままの体を温子は慌てて起こした。見回すと部屋の中にはいくつもの酒の空き瓶が転がっていた。 リアルな感覚のある夢だった。馬鹿息子の後頭部に一発。殴った感触はあったと思う。 「……幽助?」 まさか現実だったのだろうか。それとも、酔っ払って、しかも酒の味も分からなくなるほど酔って見たただの夢でしかないのだろうか。 だが家の中の空気が帰ったときに感じたようにいつもと違っている。そして自分の肩にはいつの間にか息子の上着がかけられている。 「――幽助!!」 人の気配に慌てて駆け込んだダイニングには椅子に座って眠そうな表情のまま飯を食う幽助と、彼の正面でその様子を右手で頬杖ついて眺めている螢子がいた。 「幽、助? あんた、何、――」 「これか? 螢子の親父さんからの差し入れ」 温子に気付いた幽助が丼を指し、おや?という表情で首を傾げた。 「おー、そうか。お袋、久しぶりだな」 しばらくの旅行から帰ってきたかのような気軽さで片手をあげ、酔っ払ってたからオレが生き返ったって分かってないと思ってたがやっぱりか。呟くと幽助はすぐに食事の続きに取り掛かった。 「温子さん、お久しぶりです」 今までどこへ行ってたんですか?という螢子の声が耳を通りすぎていく。茫然と立ちつくしていた温子は堰を切ったように溢れてくる衝動に身を任せて息子に駆け寄った。 |
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抱きしめるのでも殴るのでも好きなほうで。 2011/06/13 |