| トナカイ、そしてサンタ(偽) |
しつこい海軍を撒く為に、その海賊たちは散弾銃の弾のようにあちこちに散らばることにした。 ある者は海上をどこまでも逃げ、またある者は夏島の密林に身を潜ませた。
そして一人の男が辿り着いたのは冬島だった。 もともと寒さが苦手なこの男は、忌々しげに己の掴んだログポースを睨み付けたが、今更どうなるものでもない。バッグを担ぎ直してから島の内部の森へ足を進め始めた。 途中点在する家々とそこで暮らす人間を遠目に見たところ、島には王による圧制が敷かれているようだった。人々の表情は暗く、時折遠い山の上にある城を見遣る様子は、水に怯える蟻のように恐怖を滲ませていた。 こういう島では他所者は排除されることを男は経験から知っていたので、誰にも見られないように用心し、仲間からの連絡が入るまで森の奥深くで待機することにした。
冬島の冬は当然雪深い。足を飲み込む雪に舌打ちし、背の高い針葉樹の森を進む。 一軒ぐらいは樵か炭焼きが住む小屋があるだろう。そこで寒さをしのげば良いと考えた。住人の存在は頭に無い。邪魔な者を排除するのは男にとって当然のことだからだ。
しばらくは粉雪を散らす陰気な風の音と、男の息遣い、雪を踏む音が、木々に囲まれた白銀の中に響き続けた。 それらが風の音以外ぴたりと止んだ。 男は動きを止め、辺りの空気を探った。自分以外の気配が風に乗って届いたからだ。 そして少し離れた斜め後方の木の根元を睨み付けた。確実にそこに居る。
「誰だ」
声を潜めるでも無く男が問いかけた。怯えや緊張を全く見せず、誰が相手だろうと勝てるという傲慢さを漂わせていた。
「出てきても出てこなくても構わねぇがよ」
顔と声に、残虐性が滲み出る。
「出てこなけりゃ、このナイフが確実にお前をぶった切る。死ぬのを先に延ばしたけりゃあ、今すぐ出てきて命乞いでもするんだな」
果たして木の陰に隠れた相手をどうやってナイフ一本で殺めるつもりなのか。 はったりだと言い捨てることが出来ない自信が、男の言葉から漂う。
木の後ろで確かに何かが動く気配がした。男は毒々しい笑みを深くして大仰な装飾のナイフを構えた。先ほど木の陰から出たら命乞いに応じると言っておきながら、出てきた相手にナイフを投げつける気らしい。
しかし木陰から出てきたものを見て男は思わず苦笑いを浮かべた。
「なんだ、トナカイか」
まだ生まれて間もないようなトナカイだった。ゆっくりと男に近づいてくる。 しかし一歩一歩近づいてくるトナカイを見ているうちに、男の顔は笑みを消した。
トナカイがゆっくりと歩いてくるのは、そうすることしか出来ないからだった。
極端に痩せこけた小さな胴体には、無数の傷があり、長めの体毛のあちこちが血で固まっていた。 細い四本の足のうち、右後ろ足のまだ幼い蹄が割れ、ひょこひょことした歪な歩調の原因になっていた。 左目は固まった血で塞がれていて、苦悶するかのような醜く歪んだ顔をトナカイに与えている。
しかしなによりも目をひくのはその異様な色をした鼻だった。
「青いな…」
男は当初の驚きから開放され、トナカイの、その惨憺たる様を冷静に観察していた。 数メートルの位置に立ち止まったトナカイは、野生を剥き出しにうなり声を上げた。
「おー、よしよし、まだそんな気力があるのか」
男は身を屈めトナカイに手を伸ばしながら語りかけた。 もしも男を知っている者たちが見たら驚いたに違いない。あの凶暴な男が動物に手を差し伸べるなんてことがあるのかと。
「親に捨てられたんだな?」
男は静かに言った。
「鼻が、青いからだろうな…その傷も、群れのトナカイにやられたか」
トナカイは歯を剥いたままで男を睨み続けていたが、男の声があまりに静かだったせいか、唸るのを止め、男に幼い視線を向けた。
「惨めだな…生まれたとき誰にも歓迎されず、親に捨てられ、群れにも疎まれ…しかもこれから先もずっとそうだ…」
男の目に浮かんだのは、ひょっとすると憐憫の情だったのかもしれない。 しばしの沈黙の後、男は意を決したようにバッグの中から小瓶を取り出した。 錠剤を一粒手のひらに出す。
「おい、獣っつっても、わかるだろ?おめぇのこの先、生きてていいことは何もねぇよ。その奇妙なナリじゃぁ、親に捨てられるのも当然だ。他のトナカイも仲間に入れちゃくれねぇだろう。しかもそんなに小さいうちに放り出されりゃ、命だってそう長くはもたねぇ。群れから追い出された仔がこんな厳しい島で生きていけるわけがねぇ。おめぇのこれから先は闇だ。苦しみだけしか無ぇ。この島で生き抜くにはおめぇは弱わすぎんだ…。な、こりゃぁ毒だ。楽に死ねる。おめぇに必要なのはもう食い物でもなんでもねぇ、苦しいだけの時間を終わらせてくれるコレじゃねぇか?」
残酷な言葉を男はつらつらとトナカイに向かって語りかけた。しかしトナカイに死ねと言っている男からは、トナカイに対するある種の優しさが隠しようもなく浮かび上がっていたのだ。 トナカイにもそれがわかったのだろうか。ひょこり、ひょこりと男に近づき、手のひらの薬に顔を寄せる。
「そうだ」
トナカイは男の顔を見上げた。血で塞がれていない右目は、ただ黒く潤んで輝いていた。 そして男の目にも、見まがうことのない真摯な光が浮かんでいた。 おそらくこのトナカイにとって生まれて初めて触れた優しさだったのだろう。たとえ与えられた優しさの形が毒薬だとしても、暖かさには違いないのかもしれなかった。 トナカイはまるで温もりを求めるように男の手に顔を摺り寄せた。 それから口を手のひらの毒薬に近づけていった。
「っ…!」
男の手に痛みが走った。トナカイが噛み付いたのだ。 男は眉を寄せてトナカイを見ると、トナカイも噛み付きながら男を見上げていた。 無言の時が過ぎた。
「…それでも、おめぇは生きたいのか」
男の言葉がぽつりと落ちた。反応するかのようにトナカイの目からじわりと滲み出るものがあった。
「生きていたいのか」
声は震えているようだった。 噛まれていないほうの手を伸ばし、トナカイの耳の後ろをそっと撫でると、ようやくトナカイは口を離し、歯形のついた皮膚を癒すように男の手を舐めた。
「生きるってのは弱ぇ奴には死ぬより苦しいぞ。俺は…よく知ってるんだ」
トナカイはじっと男を見上げる。男もまた異相の持ち主だった。
「…!おいっ!」
トナカイが雪の上に倒れた。 飢餓と傷が、幼い体を苦しめているのだろう。 男はトナカイを見下ろし
「そんなに弱ぇくせによ…」
とつぶやいた。
胸ポケットで子電電虫が鳴る。仲間と合流の合図だ。
男は倒れたトナカイを見下ろし、少しの間考え込んでいたが、それからまたバッグの中を探り始め、今度は奇妙な果実を取り出した。
「プレゼントだ。獣にゃ勿体ねぇが…」
トナカイの横にポンと果実を置いた。ついでに左目を塞いでいる固まった血を拭い取ってやる。トナカイは薄く目を開けたが、焦点があわない。どうやら意識がはっきりしていないようだ。
「なんと一億ベリーの値打ちモンだ。喰ってどんな能力が授かるかわからねぇが、すくなくとも今よりおめぇは強くなる」
じゃあな、そういいながら、男は立ち上がり、森の外へ向かって歩き始めた。 しばらく行って振り返ると、トナカイが四肢を震わせながら立ち上がり、あの果実を齧り始めるところだった。
「ハデに生き抜けよ」
そう呟いた男の口元に浮かんでいたのは微笑みだったのかもしれない。 異様に大きく赤い鼻をフンと鳴らし、男は駆け出して行った。
遠くから響いてきた祈りの鐘の音が、万物を覆う雪のように、すべてのものに降り注いだ。
以来人間の言葉を解するようになったトナカイが「自分が会ったサンタの鼻は赤かった」と話し、仲間たちの首を捻らすことになるのだが、それは何年も先の、別の話だ。
(051223:完) |