| ハッピーエンド |
預かりもののトナカイが熱を出した。
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悪友が遺したトナカイは、意欲だけは一人前の、それ以外はくれはを絶望的な気持ちにさせるほど出来の悪い生徒だった。
「この馬鹿が!」
日に幾度も、もの分かりの悪い奴を蹴飛ばさなければならない。 救いは馬鹿で愚鈍なトナカイが、どんなに強烈な蹴りを食らっても、泣き言をもらさないことだ。別に褒める必要はないのだが、そこだけは他の多くの間が抜けた部分に比べたらマシだと思った。
そもそも誰かと暮らすなんて百年ぶりのことで、うまくない。一人以外でどうやって暮らすのか、もうとっくに忘れてしまった。 おまけに相手が悪かった。 無くても良いような、ちっぽけな尻尾があるのだ。 当初はそれがくるりと内巻きになっていた。
『あたしゃ猛獣かい…』
内心で多少不快になりながらも、こいつが周りの人間やトナカイに虐げられてきたこれまでを思うと、当然の反応とも思えた。 医術を学ぶ。医者になる。固い決意のために当人としてもくれはの元から離れる気は無いようだが、長年の人間不信はすぐには消えなかったのだろう。
しかし尻尾がくれはを更に困惑させるようになったのは、もっと最近のことだ。 ぎこちない二人での生活が始まってから数ヶ月。 気づくとその尻尾はピンと外向きに反り返り、ふるふると振られているのだ。 覚えが悪いと蹴飛ばされた拍子に出た鼻血を拭いながら、すくっと立ち上がり、
「も一回やってみるよ、ドクトリーヌ」
チョッパー専用に誂えた机に向かう後ろ姿でも、尻尾は軽やかに左右に動き続けている。 本人の意識の外で雄弁に語りかけるソレをちらりと横目に見て、くれははなにか薄明るい塊が、自分の胸の奥深く息づき始めていることに気づかされ、戸惑ってしまうのだった。
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戸外の吹雪は激しさを増したようだった。 室内の温度も湿度も病人のために整えられている。適切な薬も飲ませたし、額のタオルは取り替えたばかりだ。 医者として必要な処置は行った。もうこの部屋にいる必要は無い。 それなのにベッド脇に椅子を運んで、チョッパーの荒い呼吸を聞く。
「ドクトリーヌ…」
窓を揺らす風の音に掻き消えてしまいそうな声で呼ばれた。 視線を向けると、熱でぼやけた黒い瞳がじっと自分へ向けられていた。
「だいすき」
一瞬の後、チョッパーは再び熱の眠りに落ちていた。
どうしてだろう。 どうしてこんなにちっぽけで、出来ることなんてほんの僅かしか無いみじめな生き物のくせに、持てる全ての力でもって人へ気持ちを注ごうとするのだろう。 その注がれたものは、まるで貴い薬のように体へ沁みこんで、自分を変えてしまった。 百年を孤独に、静かに幸福に生きてきたのに、変わってしまってもう戻れない。
望めばいくらでも永らえることができる。 自分は持てる知識と技術で、きっとエルバフよりも長く生きることができる。そして外で移りゆく儚く限り有る世界を、一人ただ在り続けて見守ろうと思っていた。
しかしこのトナカイと暮らしはじめてから、自分の命ももう終わるに任せてよいと思うようになった。
(041222:完)
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