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| 深海より |

 

町を漂う霧が汚泥のようにサンジの足に絡まり、背中にのしかかってきたどろどろの疲労に押されて宿のドアを開けた。
古びた建物のロビーのランプは薄暗く、陰気な船の船底のように湿気が篭っていた。くすんだ肌のくせに目ばかりが妙に光っている主人が、まるでずっと前からサンジを待ち構えていたように、カウンターの向こうにきちんと立ってサンジを出迎えた。

「お一人ですかい?」
「あぁ」
「前払いでお願いしますよ」

ポケットを探り湿った紙幣を渡す。サンジの上着はすっかり海水を吸ってしまっていた。べたつく布を不快に思いながら、今日は何回海に潜っただろうとサンジは考えた。海に入るたびに脱いだはずの上着も、雫を吸ってすっかり濡れてしまうほど、何度も海の中を目指した。
主人は金とサンジをちらと見比べた後、赤い銅で出来た鍵を渡し、2階左手ですと部屋を教えた。礼も言わず、軋む手すりに掴まってずるずると階段を上り始めたサンジの後ろ姿に、主人の声がかかった。

「あんたは幸運ですよ」

一応振り返りながらも、隈に縁取られた目を苛立たせたサンジへ、主人は微笑みかけた。

「特別室です」
「なんだ、女付きの宿か?…今、そんな元気無ぇよ」
「見りゃわかりますよ、死人見たいな顔して」

サンジは顔の険を一層深くした。

「ねぇ…お客さん、あんたもうこの世から消えてしまったのに、どうしても諦められないものがありやしませんか?」
「あぁ?」
「あるでしょう?あるに違いないんだ」

空気が漏れる音が混ざった嫌な響きの声だった。

「今から行く部屋の端に冷蔵庫があるんですがね。それはデービー・ジョーンズのとこから盗み出された冷蔵庫で」
「なんだてめー、気でも違ってんのか?」
「なんとでも思ってくれても良いし、あんたが言うように本当に私の頭はおかしいのかもしれませんね。でもそんなことは気にするほどのことでもないでしょう」

返事をしないサンジへ、何のつもりか主人は一度大きく頷いて、話を続けた。

「話を戻しますけれど。部屋に来た人間の祈りを受けると、夜が明ける頃に冷蔵庫の中には望みのものが入ってるんですよ。海底のデービー・ジョーンズのロッカーからくすねて来るらしいんですがね。ただ奴のところにあるのは『もうこの世のものじゃなくなったもの』と決まってるんで」

だから取り返しのつかないものがある人間にとって、この部屋に泊まる機会に巡りあうなんて本当に幸運なんですよ。

「それであんただったら何を望みますかね?いやこれは私の個人的な詮索なんですけれど、なにせ見てのとおり暇な商売ですから」
「…ある男の左足と、…別の男の左腕」
「おや、そうですか?もっと別なものを望んでるんじゃぁありませんか?冷蔵庫は大型で、手や足だけじゃなく、人一人だって入れる大きさですよ。…還ってきて欲しい人間は、いないので?」
「そんなやついねーよ。死人に知り合いなんていねぇ」

サンジの言葉に主人は曖昧な顔で頷いた。それを合図にまたサンジはのろのろと階段を上っていった。

 

 

 

部屋は換気がされていないのか、どこか湿っぽく、板張りの床を歩く靴音も鈍く響いた。ただベッドは大きく、シーツも整えられていて、それだけでサンジには満足だった。
シャワーも浴びず、眠りへ吸い寄せられるようにベッドに向かおうとしたが、目の端に白い箱を捉えた。視線を向けると、扉を閉ざした古く大きな冷蔵庫があった。

『デービー・ジョーンズの冷蔵庫』

老主人の吐いた妄言が耳の奥で響いた。

「ばからしい」

言いながら、いつの間にか冷蔵庫の前に立ち、離れることができない。
頭の中で何種類もの映像がチカチカと瞬く。片足を食べながら海を眺めていた男だったり、木の粗末な義足だったり、赤髪の手配書だったり、左の袖を結んだシャツだったり。
ちぎれた手足の画像が。

「これで念じたことになるのかい?」

わざとふざけた声を出してみるが、語尾が神経質に震えてしまった。
手足、手足の画像しか頭に思い浮かべるものは無いはずなのに、それを透かしてなにかが脳裏に浮かび上がりそうになる。そんなはずはない。一瞬見えそうになったなにかを振り払うように、サンジは目を閉じて大きく呼吸した。

「じじいの足や赤髪の腕、出せるもんなら出して見やがれ」

ついた悪態は空回りして、冷蔵庫の低いモーター音に吸い込まれた。

 

 


サンジの浅い眠りは潮の香りに破られた。どこかでドアが開き、水が零れ落ちた音が聞こえた。海水だ。海の水もそれぞれの海域によって香りが違う。この香りはつい最近…昨日今日に身を浸した海域のものだ。
意識は水面ぎりぎりまで浮き上がっているのに、目を開けることができない。顔を伏せた枕も、身に掛けたシーツも、濡れてはいないのにずっしりと海水を含んで、サンジに絡みつく。部屋中に海の空気が霧とともに満ちて、それはもう海そのものがこの部屋に流れ込んで来たに違いなく、床の木目は海の水に覆われてゆらゆらと青く蠢いているのだろう。

ぴちゃりぴちゃりと濃密な水の上を近づいて来る何かがいる。部屋の隅の、白い箱の方からやって来る。

まだだ。

まだ目を開けてはならないことを、サンジは知っていた。
息を潜め、鼓動を抑えて、その時を待つ。霧の向うから近づいてくる水音に耳を澄ます。

水音はゆっくりとサンジの方に向かって来て、やがていよいよ大きな海水の塊がベッドの真横に立ち、今にもザブリと覆い被さって来るに違いないと思ったとき

「サンジ」

声がした。

「てめぇ…」
「悪ぃ、寝てたか?」

しししといつもの笑い声がした。

身を起こすと、眠りについたときと同じように殺風景な安宿の一室で、床には一滴の水も無かった。
寝る前と違うのは、いつの間にか部屋に入ってきたルフィが、ベッド脇に当然のような顔をして立っていたことだけだ。

「クソゴム、どこ行ってやがった…」
「サンジ、変な顔」
「てめぇに言われたかねぇよ」
「迷子みてぇな顔してんぞ。…泣くか?」

迷子はどっちだと言いたいのに、寝起きで上手く声が出てこない。その間もルフィはのんきに首を傾げてサンジを覗き込んでいる。もう一度いったいどこへ行っていたのかと吐いた言葉は、サンジの口の中でカラカラに干からびてしまった。頭が痛み、俯いてこめかみを押さえる。鼻の頭にルフィの鎖骨がくっついて、頭をルフィに抱きかかえられたことに気づく。ルフィの体は冷たく、強い潮の香りをさせていた。

「冷てぇな、お前」
「ん?そうか」
「まるで」
冷蔵庫の中から出した肉みてぇに冷てぇ。ルフィの体に頬をあててみる。

そんなはずはない。あれは年寄りのたわごとだし、なにより冷蔵庫に祈らなきゃならないような、還ってこない人間はいない。

「なんだよ、サンジ、ホントにお前、よわよわだ」
「…っせー」
「それとも悪い夢でも見たのか?」



あの海域は霧が深かった。波はとても静かだった。それなのに、誰も水音に気がつかなかった。誰も。
喪失が発覚してから狂ったように全員が探し回った。何度も何度も海に潜った。霧はずっしりと居座ったままだった。誰かが、近くの島に流れ着いている可能性を挙げた。可能性にすがりつき、この港町へ着いた。片っ端から尋ねて歩いた。町を漂う霧が汚泥のようにサンジの足に絡まり、背中にのしかかってきたどろどろの疲労に押されて宿のドアを開けた。


「…ヤな夢だったんだよ」

そうだ。とても悪い夢だった。ルフィは海に落ちなかった。ただはぐれただけだ。ルフィは海に落ちなかった。
冷蔵庫に祈ったのは、じじいの足と赤髪の腕。それだけだ。ほかに還ってこないものなんてなんにも、無かった。

サンジの額にルフィの薄い唇がそっと触れた。
目の前の細い胴をサンジはかき抱いた。首筋を舐めあげると、ルフィは満足そうに目を細めた。サンジの舌先に海水の味が沁みた。ルフィの全身は薄い海の水の膜で覆われているように、海の気配を漂わせていた。唇を重ねても、舌を絡めても、海による所有の印の、昨日何度も潜ったあの海の味がした。
全て気のせいに違いないのだけれど、体が震えるのは何故なのか。

「サンジ、サンジ、馬鹿だな、そんな夢は忘れるんだ」

無責任に甘い言葉を吐くルフィの息は、遥か海の底の香りがした。



部屋の隅では、細く開いた冷蔵庫のドアから薄い明かりが漏れていた。

 


(040529:完)


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