| 師への詫び状 |
今思えば、先生は道場主である他に、村の神事も委ねられていたように思う。
祭りの日には、稽古を早々に終わらせ「森へ行って来る」と真新しい白い装束で出かけていった。おそらく森の奥の滝で禊をして、それから祭りの場に来ていたのだろう。先生は、村の娘たちが大樹に踊りを捧げるのを、いつもと違う澄んだ冷ややかな顔で見守り、最後に俺の知らないどこかの国の言葉を静かに紡いでいた。
また時折先生は暦を確認してから、風呂敷包みを持って出かけていった。 ある時俺も一緒に行きたいと頼んでみた。先生は困った顔をしながらも連れて行ってくれた。村のはずれの道が三本交差し祠のある場所へ着くと、先生は荷物から石像を取り出し、仕上げとばかりに帯びていた刀で何か細工をしてから、祠の中に元からあった石像と取り替えた。それから壜を取り出して、村に向かう以外の二筋の道に水を打った。 額に疑問符を貼り付けているような顔をしていたに違いない俺に微笑んで「最近村に異人がたくさん入り込んでいるからね」と言った。 俺はその前日の夕暮れ時に先生の家で見た、障子に映った大小の奇妙な生き物の影を思い出し、ああと頷いた。すると先生は「やはりゾロも見える子なんだね」と妙に納得したような顔をしていた。 それから先生は俺の両肩に手を置いてこう話した。
「ゾロ、ゾロは他の人よりも、人間ではないものが見える子なんだと思う」 「それは強いってことか?」 「それはちょっと違うかもしれない。ただ異界のものが見えるということは、逆にあちらからも気づかれ、呼び寄せてしまうことも多いから、強くあったほうが良いとも言える」 「じゃあもっと強くなりゃいいのか」 「…ゾロは強い子だけどね、逆に怯えることを知らないから、先生はそれが心配だ」
先生はいつもよりも厳しい顔でしばらく考え込んでから、言葉を続けた。
「自分から彼らを呼び込んではいけないよ、あの中には悪さをするやつもいるし、どんなに強い人間でも手に負えないほど獰猛なものもいるからね」
俺は頷きはしたものの、子供の傲慢さか、やはりどこかでそいつらよりも強くなればよいだけのことだとも考えていた。
「こうやって私が話したことを、畏れるということを、覚えていて欲しい。あちらの世界には時に抗えないほどの魅力を持つものもいるが、それに眩んでくれぐれも自分の元に招くなんて愚を犯してはいけない。そうなった先に起こることは、他でもない、呼んでしまった人間自身にも責任があるんだよ」
懐かしい人の声や姿は夢に違いないと思いながら、やはりまだ見ていたくて、目を開かずにいた。このまま眠りに身を任せておこうと思った。
「…!ぐっ……!っ」
突然息苦しくなったと思ったら、喉に信じられないような痛みが襲ってきた。 何かが俺の上に覆いかぶさっていることを知り、引き剥がそうとするが、大きさはたいしたことがないくせに、それは恐ろしい力で俺にしがみついたまま離れない。 油断した、とか、息が、とか、遠のきそうな意識で必死に抵抗していると、ふと楽になった。
開放された呼吸をぜいぜいと味わう。喉の表面を何かが伝う。酷く耳鳴りがする。 見開いた俺の視界に入ったのは、天井と俺の間でげらげらと大笑いしているルフィだった。
「…お…い」
強く圧迫されていた喉からはうまく言葉が出てこない。
「何…してくれてんだ、てめー…」 「ん?噛んだ」 「噛んだって…。俺の喉…ど…なってる…?」 「はは、血ィ出てるぞ、ゾロ」
喉からシーツに流れているのは血であるらしい。
「…なん…で」 「だって呼んでも起きねーんだもん、暇だった」
そういってまたルフィは笑い、まだ呆然としている俺の上に上体を降ろしてきた。首筋にぬるく柔らかいものが這い回り始めた。自分で流させた俺の血を舐め取っているらしい。 まだ荒い呼吸は収まらず、噛み裂かれた喉が今になって痛み始めた。 それからすっと細い腕が俺の頭を包んだと思うと、今度は額や頬に唇が降ってきた。硬質なルフィの唇が俺のに触れ、するりと舌が潜り込んできて、甘く深い口付けになった。
『おいお前、ちょっとこっちへ来てくれないか』
あの海軍基地でこいつを呼んだのは俺だった。先生に何か言い訳でもしたいような、それでいて笑い出したいような、妙な気持ちになる。
「ゾロ…なんの夢見てたんだ?」
事の合い間にルフィが吐息のような声で尋ねてきたので
「…痛い目にあうのは自業自得って夢だよ」
そう答えておいた。
(050503:完)
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