| 風が強い日 |
昔のことは全部が白いもやもやの奥にあって、たまにもやもやが途切れたとこから色が見えるような気がするんだけど、それもほんの一瞬で、見えたもんが何を意味してんのかさっぱりわかんねぇ。 わかんのは、俺がぜーんぶを忘れちまったってことと、忘れてからずっとここで暮らしてるってことだけだ。
「ルフィ」
俺の名前を呼ぶマキノはいつもにこにこしてる。 マキノの店を手伝おうとして、たっくさん食器を割ったり、つまみ食いして仕込みの料理をぜんぶ食べちまったときに呼ぶ「ルフィ」も、どこかうれしそうだ。もちろん思いっきりほっぺたをひっぱられるんだけど。 村長にマキノのにこにこの理由を聞いてみたら「あいつは誰よりもお前を気にかけておったからな。お前が生きて帰ってきただけでうれしいのじゃろう」と言われて、ちょっと照れた。「だからこれ以上はマキノに心配をかけてはならんぞ」と念を押されて、俺はマキノの顔を思い浮かべながら真面目にうなづいた。俺の腹と背中にあるでっかい傷や、肩にある何かに噛まれた痕を見たときの、マキノのあの悲しそうな顔はもう見たくねぇ。なんだって俺はこんなに馬鹿馬鹿しいくらい傷だらけになっちまったんだろ? 特にこの顔の傷。ほんとこんなとこどうやったら怪我できんだよ。マキノも、一度ものすごくこわばった顔でこの傷を触った。ひょっとしたらこの傷ができたときのこと知ってんのかと思ったけど、「ルフィ、もうあんな世界に戻らないでね」とマキノにきつく抱きしめられたら、何も聞けなかった。
ここは俺の育った村らしい。ぜんぜんおぼえてねーけど。 この前、近所のガキたちと遊んでて、調子に乗ってフーシャに登って回転を止めちまったとき、村長が「ガキのころから何回このフーシャをとめたら気がすむんじゃ!」と怒鳴りながら、すっげーフックの利いたげんこつをくれた。そうか俺はガキのころも同じことやってたんだなぁと変なことに感心しちまった。 ほかにも魚屋のおっちゃんが「ほら!お前好きだった魚だぞ!」ってくれた魚をマキノに渡したら、マキノも「この魚をソテーにしてからオレンジのソースをかけるのが好きなのよね」なんて言いながら料理してくれて、確かにその味はやばうまでめちゃめちゃに気に入った。この村の連中が俺よりも俺に詳しくって、それがほんとに当然の顔で教えられるから、疑いようもなく俺はこの村の人間で、何もかも忘れちまったけど、ここに俺は居ていいんだと安心できた。
たまに、白いもやもやの中から、俺に会いにくる連中もいた。 ミカン色の髪の女に、鼻の長い男、金髪の男と緑の髪の男が一緒の船で来た。 俺が何も思い出してねぇって知ると、女は悲しそうな顔をした。鼻の長い男は「ナミ、ルフィが不安そうな顔するから…」って女に言って「心配すんな」と俺に笑いかけた。俺はちょっとこの男がいい奴に思えた。 緑の髪の男は何も言わずに、ただものすげー目つきで俺を睨んでて、こいつも鼻の長い男に怒られて、ぷいと顔を横にそらしちまった。なんだよこの緑頭と思ったけど、なんか緑頭に酷いことをしてんのは俺のような気がして怒るに怒れなかった。金髪は「正直ここはいい島だし、思い出せなくてもしあわせだったら、まぁいいさ」となんだかえらく優しかった。感動した。眉まいてるけどな。 羊の船にのっかって、また来ると言い残して連中は帰ってった。村長に聞いたら、俺をここに連れてきたのは連中なんだって。てことは一緒に旅してたのかなぁ。 ミカン色、黒、金に緑。 白いもやもやの奥にちらちらと見えるのは連中なのか。でも見えていたのはもっと別の色だったような気がする。俺にはわからない。わからないまま、この村にいるのがいいんだろうって思う。ほっとした顔で羊の船を見送るマキノの顔を見ながら、そう思う。
秋になって、村の連中はやたらと空を眺め雲行きを気にし始めた。嵐が来るって。 みんな畑の作物が倒れないようにしたり、家の窓ガラスが割れないように板を打ち付けたりと大騒ぎだった。 俺も村長やマキノの手伝いだけじゃなくて、近所の連中の手伝いに走り回ったけど、嵐が来るかと思うと本当はわくわくしてた。 結局嵐が通り過ぎた後にわかったのは、どんなに俺たちが準備したってぜんぜん意味無くって、屋根はふっとぶし、ガラスは割れる。畑だってめちゃめちゃになっちまった。村長が「天災の前には人間なんて立ち尽くすだけじゃよ」と言ってた。
マキノの家はあんまり被害にあわなかったけど、海辺の何件かが酷かった。マキノに連れられて手伝いに行ったら村長も来てた。みんな、ほんとは抵抗する気なんて無かったような、最初から無駄だって知ってたような顔をしながら後片付けをしてた。
魚屋のおっちゃんちもガラスが割れたり庭木が倒れたりして、かなりやられてた。それでもおっちゃんは妙に元気だった。商売用のいけすに嵐で海から飛ばされた魚が何匹も入ってたんだって言って笑ってた。俺はびっくりしていけすの中を覗き込んで、どれが飛んできた魚かと、手伝いそっちのけでおっちゃんと話してた。 急におっちゃんからの返事が無くなった。見ると、魚屋のおっちゃんの視線は、俺を通りこして何かを見てて、そのまま固まってた。 村長は魚屋のおっちゃんの視線を追って海の方を見た。 みんなつぎつぎに海の方を見た。 みんなの手からぽとぽとと板やノコギリが落ちてった。 村長も魚屋のおっちゃんも、みんながぼんやり立ち尽くして海を見てた。 マキノも海を見てた。マキノが声にならないうめき声を上げて、口を両手で覆って、ぱたんとひざをついた。 マキノの真っ黒な目に、海と、なにかが映ってた。
俺も海を見た。
海賊旗が見えた。左目に三本傷のあるどくろだ。
強い風が、白いもやもやを吹き飛ばし、俺は港へ全力で走り出した。
(031015:完)
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