| 遠い光 |
夏の光に、全てが白く蒸発してしまいそうだった。 サンジも。ルフィも。二人が見つめる崖下の死体も。
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鈍い灰色に輝く雪雲に覆われた冬の海は、低い波の音を響かせていた。潮風に晒されて積もりきることのできない雪の欠片が、岩陰に小さくしがみついていた。 意地悪く頬を打つ潮風に舌打ちし、眉間にしわを寄せながらサンジは波打ち際のルフィに声をかけた。
「いーかげん帰るぞ」
波の音に消えてしまわない程度に声を張り上げたので、聞こえていないわけはないのだが、ルフィは振り向きもせず、ただ荒々しくうねる海を見ていた。ばたばたと風に乱された暗い色の金髪がサンジの眼前に縞を作り、その隙間からしゃがみこんで丸まったルフィの背中が見えた。
「おい…」
近づいて声をかけると、ようやくルフィがサンジを仰ぎ見た。ニパっと笑う小さな顔の頬と鼻の頭が赤くなっているが、それはサンジも同じだった。
「先、帰ってていーぞ?」 「てめぇ一人をここにおいてか?馬鹿いってんじゃねぇぞ」
サンジがルフィとセットになって留守番や買出しをナミに言い渡されることが多いのは、不用意に海に近づくルフィの見張り役兼救助役という意味合いが強い。
「てめぇがこのくそ冷てー海に入ってかねーって保障は無ぇ」
たとえば、今もルフィの頭にある季節外れの麦藁帽子が不意に風に飛ばされて海に落ちたら。
「だったらご期待に」 「そわなくていーから」
ため息をルフィの上に降らせてから、サンジは自分のマフラーを解き、ルフィの首に幾重かに巻きつけてやる。髪の黒とは違う黒に顔の半ばまで覆われたルフィは、「わったへー」とどうやら暖かいという意の音を発して、満足そうに目で笑った。そのままの姿勢でサンジに手を伸ばす。意図を理解したサンジは、眉を大げさに持ち上げて口を捻じ曲げて見せたが、依然として自分を見上げ続けるルフィの笑みに根負けしてその手を掴んだ。
「よっ…と」 「自分で立てよ」
サンジにひっぱり上げられてようやく立ち上がったルフィは、そのままサンジの手を離さずにゆっくりと砂浜を歩きだした。当然サンジも一緒に進んだ。 小さな足音を重ね、足跡を並べて、無言で歩いた。ルフィの手は鉄と同じくらい冷たくて、もっと早く手をつないでおけばよかったとサンジはぼんやり考え、握る手に少し力を込めた。ルフィが不思議そうな顔を向けても、そ知らぬ顔で黒い靴先が左右交互に砂に埋まるのを見続けた。ルフィもすぐに沖の波頭へ視線を移してしまった。
「あ」
ルフィが小さく声を上げた。何かを見つけたその声を追ってサンジも先を見ると、分厚い雲の隙間から光が砂のようにさらさらとこぼれ出ていた。
「あそこだけ夏かな」 「んなわけねーだろ」 「だよなー。夏のお日様はもっと」
もっと?
夏という季節そのものの亡霊のように、蘇る光景があった。 心中した男女の肉体だったものは、日の光に照らされて、ある部分は醜く萎れ、ある部分は腐敗し透明な蝋を塗りつけたようにてらてらとぬめりをおびていた。男の右手と女の左手を固く結んでいたはずの布は、岩場に叩きつけられ、熱線にあぶられて、今にも破れてしまいそうだった。 数日前に会ったとき、明るく笑って恋人を抱き寄せて見せた男は、その逞しい四肢を奇妙な方向へ捻じ曲げていた。寄り添って頬を染めた女の蜂蜜色の髪は、赤茶色に染まっていた。 夏の太陽に焦がされながら二人で見たあの崖の下。
「サンジ」 「ん」 「あの二人のこと、うらやましいって思うときがある」 「…あぁ」
微かだった足音が止んだ。二つの人影を千切り飛ばしてしまいたそうに猛々しく風が吹き、砂のつぶてが二人に当たって霰のような音を立てた。 不意にやってきた高波が背後で砕けた音がした。 サンジの、海を映し取った灰色の目と、熱病人のようなルフィの黒瞳が、今まで歩いてきた砂浜を振り返ると、確かにあったはずの二つの足跡は消えていて、濃く色を変えた砂が波の残骸に弄ばれていた。
再び足音が聞こえ始めた。1歩、2歩、3歩目は砂を踏む音ではなく、水音だった。波打ち際のリズムがにかわに乱された。 9歩目でサンジの膝が濡れ、15歩目でルフィの胸まで海水が来た。ルフィはそこからずるりと力を奪われ、サンジがルフィの体を抱えた。悪魔に望まれた体は水の中で貝殻よりも頼りなく波に揺さぶられた。 凍てつく海水に二人の体は瘧を病んだように震え、ルフィが薄く目を開けてサンジを見上げたとき、カチカチカチと歯が鳴った。応えたサンジの唇も不吉な色をしていた。 波に紛れた氷の刃は鋭く二人の肌に突き刺さり、濡れた体を寒風が叩き、冷たさよりも痛みが体中に広がった。海底の砂を蹴ろうとするサンジの足が重くもつれた。 体温が急速に下がって、体の表面からじんじんと凍える海に侵されていった。皮膚から筋肉、骨、内臓、そして血液が青灰色がかったゼリーのようにあたたかみを失って、海の水に取り込まれていくようだった。
ひときわ獰猛な波が通りすぎた後、サンジは凍えて力が入らない腕を懸命に動かしてルフィを抱きなおした。ルフィもごく僅かに指を動かしてサンジの服を掴んだ。
ここまでだった。 これより深く進むには、一人一人それぞれに与えられたものがあまりにも尊かった。 ルフィとサンジは、あの夏の二人のように境い目も無く肉体を溶け合わせてしまうことも、抱える孤独を死で補うことも出来なかった。崖の下に見たのは一つの完成した遠い世界だった。 永遠にあの夏に辿り着けないルフィとサンジに出来ることは、氷海に互いの命をさらけ出し、ひとかたまりの氷の真似事をして、どこまでも二つでしかない自分達の存在に虚ろに抗うことだけだった。
一つの殻に二つのたましいをくるませた畸形の卵のような二人の姿は、しばらく波間に見え隠れしていた。
(040128:完)
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