| 孤影 |
ナミが探してきた宿は、メリー号が泊まっている岸よりも、もう少し町の中心に近い場所にあった。宿の人間は栄えた町の商売人らしく、滑らかな笑顔を浮かべて客たちを迎えた。 宿の庭の隅には穴が掘られていて、ナミはそこを指差して
「ここにミカンの木をとりあえず植えさせて貰うことにしたの」
こわばった顔で言った。 ゾロは抱えていた果樹の根をその穴に差し込んだ。ナミが掘りおこされて除けてあった土で根の周りを埋め始める。 ゾロの目の前で、みるみるナミの爪の間に土が入り、膝が汚れた。黙々と埋め続けるナミの姿は、いつもよりも生気が無かった。ウソップの一件でナミが流していた涙をゾロはぼんやりと思い出した。
部屋は古いが清潔だった。ゾロが庭にいた間にルフィは部屋に入ったらしく、船から持ってきた荷物が解かれることもなく床に転がっていた。部屋には既にルフィの気配はない。宿内で擦れ違わなかったので建物からは出ていないはずだ。屋上にでも行ったのだろう。少し迷って、ゾロも屋上へ向かった。
屋上のドアは開け放してあった。広めの屋上に出ると、細く長く伸びた麦わらの影が、夕日が辺りを照らしていることを知らせた。 ゾロが横に並んでも、柵にもたれたルフィは顔を向けることはしなかった。
ゾロは無言のまま水路を見下ろした。水面が夕暮れ色に染まろうとするのに、次々と船が通り、波を立て、水の奥の暗い色をひっぱりだす。表面のオレンジ色と奥の濃紺がお互いの領土を奪い合うように絡み合っている。 隣に立つルフィは俯くことを固く拒むように、目を傷めそうな強い光の夕日に顔を向けていた。小さな顔の大半を黒い影が覆い、その影は常にルフィと共に在る麦わらが明確な意思を持って作り上げているように思えた。
「ウソップは強くなったよな」
ゾロの言葉にルフィのこめかみの辺りがひくつく気配がし、尖らせた口から暗い声が言葉を返した。
「…でも馬鹿だ、あれでオレに勝てるわけがねーんだ」 「あぁ」
一見善戦したように見えるが、そうではないだろう。意識して手を抜いたというわけではないだろうが、ルフィの本気はあんなものではない。戦闘の力で言えば、比べることが不可能なほどの差がある。それでもルフィがあれだけウソップの攻撃を受けたのは、一種の感傷によるのだろう。
「オレは先に進む。進めねぇ奴は、同じ船に乗らなくていい」 「…そうだな」 「ウソップだけじゃねぇ、ナミもロビンも、サンジもチョッパーもだ」
低い声で発せられる一言一言に、ルフィが削られて行く。そうやって削ぎ落としていた肉の最後のひとかけらが本当のルフィであるような、そんな根拠の無い思惟が脳裏をよぎった。
ふとルフィの意識が自分へ向いたのをゾロは感じた。
「でもお前はオレについてこれなくなったら」
そのときは。
そこで途切れた言葉の続きを、ゾロは正確に理解できた。 この長い航海が始まる時に、自分はルフィに何と言ったか。その言葉は当然自分にも帰ってくるのだ。
「船長命令だ」 「あぁ」
ルフィの体温を感じる。こんなにも近くにいる。目を閉じて隣に在る呼吸と己のを合わせると、まるで臓器を共有しあっているように、二つの鼓動が正確に重なる。
――慈しみあい、優しさと弱さで穴を埋めあうような仲ではない。 弱さゆえにルフィが倒れ伏したら、自分はその体を踏みつけて先に往くだろう。共有しあう臓器を無理やり引き千切り、裂けた身から血を流しながらも進むだろう。 しかし、ルフィの強さゆえにルフィが孤独になっていくのであれば、自分は隣に居続けようと思う。苛まれる身と心を抱きしめることもなく、ただ呼吸と鼓動を共にして隣に居よう。今、この時のように。
夕日が水平線に身の大半を沈め、先ほどまで町を包んでいたオレンジ色は夜に勢力を奪われ、黒く浮かび上がる建物にわずかに縁取りを添えるだけになった。 ルフィが勢いをつけて屋上から飛び、目の前の塔の屋根に立つ。そこからは沈む夕日がまだ見えるのだろうか。 ウソップの姿は、メリー号の姿は、見えるのだろうか。
昇る太陽だけを見て生きて行けるわけは無いのだ。 逆光に黒い影を浮かばせたルフィは、網膜にこの落ちる太陽を焼き付けているのだろう。
ルフィの輪郭を作っていた落日の光はいよいよ弱まり、微かに麦わらの辺りを照らすだけになっていた。見る間にそれも小さく細くなり、そして夜が訪れた。 全き闇に覆われる瞬間のルフィの姿は、瞼を閉じてもゾロの視界を占め続けた。
(040905:完)
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