| 刺青 |
刺青を入れようとしたことがある。
海賊狩りとして名が知られ始めた頃のことだ。 目指したわけでもなく辿りついた島は、住民の気質がこれでもかと荒々しく、夜の盛り場でもないのにやれ肩があたったの睨みをくれやがったの女を盗ったのと怒鳴り声が響いていて、そんな空気を俺はなぜだかとても気に入っていた。怒声と嬌声を窓の外に聞きながら、しばらくその島に留まっていた。 博打が盛んで、昼間は闘鶏や闘犬に、夜は賽や花札に札びらを飛ばす連中の声が絶えることのない町だった。金や力や運を掴もうとするぎらぎらとした熱気は、その頃の俺が纏っていた空気と似通っていて、それも長居をした理由だったのかもしれない。爛熟した空気が呼ぶのか、海賊の訪れも多く、賞金を稼ぐ餌にも不自由しなかった。もっとも、島の住人を見慣れてしまうと、そこらの海賊なんて善良な漁師にしか見えなかったが。
「あんたの目はいいね」
酒場で知り合った男に言われた。そう言う男の方こそ、直視し続けるには腹に力を入れなければならないような、すさまじい目をしていた。年は六十を越えているらしかったが、まだまだ現役で大きな賭場を仕切っている組の長だった。身じろぎ一つする度に、男の身に染み付いた酒と白粉の香りが振り撒かれる、艶やかな男だった。
「飢えて迷っている」
余計なお世話だった。手ごたえのある敵に出逢えない焦りと、自分の中に芽生え始めた傲慢と倦怠を見抜かれたような不快に、一気に酒を流し込んだ。熱く燗をつけた辛い酒が喉を焼く。そのまま突っ伏して寝てしまおうかと考えた。 横で布を滑らす音がして、目を向けると、そこには穏やかな顔をした女が居た。
「驚いたかい?」
背中を向けたまま男が笑って、すると女もゆるく揺れた。 男の背に描かれた女は、それは見事だった。豊かな乳房とすらりとくびれ膨らむ腰の線は肉感的で、祈りを捧げる姿勢をとった手は清冽、そして柔らかな輪郭の中にある黒い目の澄んだ煌きや、ふっくらと紅をのせ少し微笑んだ唇は、人間が描くことが可能な造形の中で最も美しいのではないかと思われた。俺は言葉もなく人体に描かれた芸術に見入った。
「こんな修羅場に暮らしているとね、守りたいものがなんなのかもわからなくなってくる。変に力を持っちまったのが悪かったんだろうけど」
諸肌脱いだ盲縞の着物を整えながら、男は俺へ視線を向けた。
「この絵を背負ってからは、自分の中で渦を巻いて行き場を失くしてた力の遣りどころがはっきりとしてね。長生きできたのを良しというわけじゃないけど、この女を守ることは即ち敵に背を向けないこと、自分を無駄に垂れ流さないことと思い定めて、極道なりの筋を通して生きて来れたと思ってるんだよ」 「…俺が、力の遣りどころを違えてると?」
殺気だった俺の空気をひらりとかわして、男は鮮やかに笑って見せた。
「自分でわかってることをひとにお聞きでないよ。年寄りの御節介だと聞き流してくれて良いよ。ただあんたみたいな人が、この女を体に刺す時の脂汗が湧き出て身が引き攣る痛みと同じくらいの大事を手に入れたら、どれだけ見事な男になるだろうとね、そんな興味があっただけだ」 男の下駄の音が、着流しの姿と共に暖簾の外に消えていった後、俺は店の亭主に島一番の彫り師の名を尋ねていた。
川べりの、古ぼけた一軒家が彫り師の住処だった。古いなりに手入れは行き届いていて、門から続く敷石が草で隠れることもなく、枯れ池も落ち葉の吹き溜まりというわけでもなかった。 家に向かって声をかけると能面のような女が出てきて、俺を座敷へと連れて行った。
「帰りな」
坊主頭で猫背の彫り師は、鉢でごりごりと染料を擦っていたが、俺の顔を見るなり言った。俺は無言でシャツを脱ぎ捨て男に背を見せた。
「彫りがいはあると思うが」 「寝ぼけたことをいうガキだねぇ」 「彫らねば斬るといっても?」
彫り師は目を細め、嫌な目つきをした。良く見ると片目が潰れていた。
「あたしゃ一応偏屈で通っていてね。どんなにいい肌いい背中をしていても気に入らない奴の体にあたしの針を刺す気にはならないね。死んだってごめんだ。それにあんたの背中はのっぺらぼうじゃねぇか。刺したくても刺せないさ」 「のっぺらぼう?」
不審な顔をする俺に、彫り師はニヤリと顔をゆがめて見せた。おい、と奥へ声をかけると、先ほどの女が出てきた。彫り師にあごをしゃくられ、女は俺に向かって無表情に衣装の袖を捲り上げた。 暗い色の紬に覆われていた女の腕が一気に肩まで晒されると、ぬめぬめと白く光る肌に赤黒く燃え上がる地獄絵図があった。
「刺青の画はね、あたしが描くんじゃないんだ。やって来る連中の肌にじわじわと滲み出てくるものをね、こう、すっと掬い上げて、そのまま色を刺していくだけなのさ。人によってそれは業だったり望みだったり、この女みたいに本性だったりするんだけど、あんたにゃそれがないよ」
だったらあの極道の背のものも、纏っていた色に相応しい画が自然と涌き出して来たのか。思うと不思議と納得できた。俺の背には何も浮かばないことも。 脱ぎ捨てた服を拾い上げ、俺は立ち上がった。
「またおいで」
今はつまらない背中だけど、あんたにはそのうち面白い画が浮かんできそうだ。でも今のままだったらそれも流れちまうよ。
嘲笑うような男の声を聞きながら、俺は身を浸しきっていた心地よい澱みから這い出て、新しい流れに向かう決意を固めていた。
「ゾロ、どした?」
修行が終わったんだったらこっちこいよ、とルフィが声をかけに来た。デッキは西日に包まれていて、俺はずいぶん長い間物思いに耽っていたようだ。 あれから俺は鷹の目という目標を知り、ルフィに会い、鷹の目に敗れた。のっぺらぼうと言われた俺の肌には何が浮き出て来ただろう。汗を拭ったままの裸の胸元を見下ろすと、鷹の目に刻まれた傷が見えた。
「ルフィ、俺の背中には何が浮かんでる?」
「オレの影が映ってるぞ」
胸に鷹の目、背中にルフィ。今の俺は確実に何かを背負い、刻みながら、澱みのない激流を渡っている。
(031116:完)
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