パエトーン

<作>坂田靖子
白泉社

ヨーロッパ映画の趣き

ある日画家のシェフが会った少年マクセルは、その奔放な性格と研ぎ澄まされた感性で芸術家の才能を花開かさせる素質を持っていた。マクセルをモデルとしてシェフは絵を描こうとするが、友人の画商ロスコーの仲介で、彼が密かにライバル心を持つアスネイもまた、マクセルをモデルとして描くこととなる。それが契機となり、シェフは深い闇の中へと自らを追い込むこととなっていく。

人間は平等だとは言うけれど、それは生命体としての価値の問題であって、身体的特徴や才能というものは人によって違っている。大半の人間というものはそれぞれが望んだ能力を与えられて生まれてくるわけではなく、努力したりなんなりして適当に対処していくものである。それでもうまくいかなければ、すぱっと諦めるよりほかは無い。

しかし世の中、やっぱり諦めがつかないこともある。なまじちょっとばかり才能がある場合など、尚更だろう。「パエトーン」の主人公シェフは、マクセルが来るずっと前から、おそらくそのことを知っていたのだ。アスネイより才能が劣ることも、自分でも気づかないうちに知っていたのだろう。芸術というものは厄介だ。その価値の殆ど全ては、努力の領域を越えていることが多いからである。生の才能が試されてしまうのだ。ロスコーは言う。

「才能も無いくせにちょっと器用なだけで芸術家ぶるやつが多すぎるんだ。思い上がりだね。」

この一言にシェフは「ぼくもそう思う。」と笑って答えるのである。ロスコーは彼を芸術家だと思っていたからこそ、面前でこう言い放ったのだろう。だが、自分の才能に疑念と不信を抱いているものにとって、これほどこたえることは無い。その理屈がわかっている分、余計にそうである。こんな時にマクセルに会ってしまった彼は、ある意味不幸だったと言えるかもしれない。けれども、シェフはマクセルとの信頼関係を得、自分に欠けてきていたものを知りえた。マクセルはシェフにとってミューズ(詩神)たり得なかったが、まったく違う回路でシェフと繋がることになるのである。

続編の「プロメテウス」は、シェフが自分の中で絵を描くということを取り戻していく過程のお話。彼は今まで描いてきたものをもう一度描くことはできないだろうが、違う境地を見出すことになるかもしれない。自分の中で壊れたものを再生するということは、多分そういうこと。そして、彼にはロスコーとマクセルというこの上ない友人がいるのだ。

最後に収録されている「孔雀の庭」は、没落する貴族の悲哀を描いた掌編。圧倒的財力を誇りながら、その富に溶け込むように消えてゆくある貴族の一家を、画商のまなざしから捉えている。夢と現実が交錯するような展開の話だが、この話に出てくる若い公爵にとっては、人生そのものがそうなのかもしれないですね。世間から浮いた空中庭園に住む、囚われの身の孔雀。それが彼なのではなかろうかと。

坂田靖子って美術が結構好きなんですね。でも、作品であまり美術作品そのものを自分で描かないのは、さすがに賢明な選択(笑)。脚本は抜群によいし、彼女の書き込みの多くない絵柄は好きなんだけれども、他の人がこれを描いたら・・・などと思ってしまう。地味な作品に終わってしまうのが惜しい!この筋書きでいい映画が一本取れそうな気すらしてしまうだけに、本当に惜しいです。      
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