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催眠術ブームの世相に祭りあげられた人物

当時23歳だった千鶴子が世間に登場したのは明治42年(1909年)である。

彼女が研究、発明したと称する「透見法」(いわゆる透視)の試験が元京都帝国大学総長・木下公次の自宅で行われた。

この模様が8月14日付の東京朝日新聞に紹介されたのである。

すべては、この前年千鶴子の義兄である清原猛雄が催眠術に傾倒し、千鶴子が被験者となったおりに「千里眼ができる」

と暗示をかけられたことを端を発する。

当時巷を席巻した催眠術ブームの流れを受け、新聞報道は、容易に他人と異なる能力を得たいと願う民衆の関心を引きつ

けた。

能力の発見当初は催眠術に誘導されていたものの、のちに彼女は催眠術なしでも透視ができるようになった。

人体透視も可能となり、病気や怪我の患者が殺到したという。

彼女の千里眼の評判は、やがて催眠術の研究家として知られる福来友吉の知るところになり、ついに明治43年、福来は

千鶴子に対して実験を行うこととなった。

彼は任意の名刺を19枚用意し、その表面に鍚箔を貼り付け、さらにそれを白色のカードで挟んだ上で封筒におさめ、割り印を捺した。

これを千鶴子は封を開かぬまま、名刺の文字を透視した。

さらに「うすくろき紙のはりあるをみる」と鍚箔の存在まで透視した。

これにより千鶴子の能力はますます注目され東京と大阪での公開実験でも研究家をうならせる結果を出した。

しかしその後の雨後の筍のごとく勃興してきた無数の「心霊学」ラッシュはうさんくさいものだった。

メカニズムが不明なまま、あると断定的に捉えたうえで千里眼を解釈していこうという乱暴な動きである。

また、千鶴子につづく形で自称千里眼能力者たちが全国各地に登場し、それは長尾郁子の登場によって千里眼ブームの

ピークを迎える。

しかし、長尾郁子の公開実験は疑惑を持たれ、世間の千里眼に対する興味は薄らぐ。

明治44年1月18日、千鶴子が突然の自殺を遂げた。

家庭の事情や彼女自身の能力の減衰に思い悩んでいたという。

さらに長尾家の実験中止もあって被験者不在の状況となり、千里眼に対するブームと研究は歴史の闇に消えた。
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