○選手でなかったが故のコーチになるための苦労 もしNBAでプレーしていないのであれば、コーチになるため に評判を得る必要がある。 インディアナACマイク・ブラウンはシャーロットHCの バーニー・ビッカースタッフからそれを得た。 ビッカースタフはブラウンがコーチになるためにチャンスを 与えた。 ブラウンはそれを生かし、尊敬できるACとして、2つの チームのHC候補として名前を挙げられた。 ☆ビッカースタフ 「彼は素晴らしいバスケットボールに対する情熱がある」 「ドアを開けるチャンスをもらわなくてはいけない」 「そのチャンスをもらった後、彼が評価を受け、さらなる チャンスを得たのは彼自身のおかげに過ぎない」 30人のNBAコーチのうち、10人がNBAもしくはABA でのプレー経験がない。 彼らにはいい時期にいいコーチであると知られるコネクション があり、そしてそれを生かす必要があった。 カーライルは5年間NBA経験があったが、下積みを経験 している。 89年−90年シーズン早々にウェーバーされ、ニュージャ ージーのスカウトから段々とコーチの仕事に関わる仕事に 職を移していった。 カーライルはカーライルで現在のACダン・バークをポート ランド時代にビデオコーディネーターとして、チャド・ フォーシャーをサマーキャンプに呼んだりし、コネクション を作ってあげたりした。 ☆カーライル 「NBAのコーチというのは、そんなに多くの採用枠がない ので厳しい世界なのさ」 「人としての慣れ親しみ、そして仕事っぷりが最大の雇用条件 になるだろうね」 ブラウンにはNBAのコネクションがなかった。 サンディエゴ大学でプレーしていたが、自分がNBAでプレー できるほどの選手でないことを十分理解していたし、そして コーチになりたいと思っていた。 どこかで。 そして彼は旅行のバスを待つ間にコーチのオフィスにあった 交友会雑誌を見たときに、表紙の男に好奇心をそそられた。 それはサンディエゴ大学を卒業生であり、デンバー・ナゲッ ツのコーチをしていたビッカースタッフだった。 ブラウンは、当時の大学のHCハンク・イーガンを通して、 サマーインターンシップをビッカースタッフの下で行った。 ブラウンはビデオコーディネーター、スカウト、サマー キャンプのコーチと責任割合を高めていった。 ☆ブラウン 「私は目標が達成されるまでとにかくいろいろやった」 「ビッカースタッフのおかげで成長することができた」 「彼は私に自由にやらせてくれた」 「チャンスをくれたものはなんでもやった」 「やればやるほど、どんどん色々やりたくなったんだ」 「他の人たちがどうだかはわかんなかったけど、とにかく 私は楽しくて仕方がなかった」 ビッカースタッフはサマーインターンシップの終わりに ブラウンに1500ドルの給料を渡し、驚かせただけで なく、彼が大学を卒業する12月まで彼に仕事を与えた。 ブラウンはビッカースタッフについてワシントンまで行き、 ビッカースタッフが解雇された後も、ワシントンのスタッフ として働き、その後グレグ・ポポビッチの下でサンアントニオ のACとして働いた。 彼はついにNBAでのプロ経験なしでNBAのコーチに なった。 13年目のアシスタントシーズンである今、彼はインディアナ のディフェンス担当の副ヘッドコーチである。 彼はトロントやアトランタのHC候補として名前があがり、 アトランタのHCマイク・ウッドソンの次点だった。 これからますますHCになる可能性が高いだろう。 もしブラウンがチャンスを得れば、また同様に彼の家系が できることになる。 きっと彼はサンディエゴ大の校友会雑誌のカバーになるだ ろう。