○レジーミラーのすさまじい瞬間 1987年NBAドラフト11位指名権。 マーケットスクウェアアリーナに集まった5000人もの ファンの希望通りの展開になっていた。 外からのシューターが欲しい・・。 しかしみんなの希望であった地元の英雄であり、インディアナ 大学の国内タイトル獲得の立役者スティーブ・アルフォードの 獲得ではなく、UCLAの6−7のSGだった。 そのSGは18年間で24000点以上をあげ、2500本 以上の3Pを決め、インディアナフロントの選択の正しさを 証明した。 アルフォード? 4年のNBAシーズンで744得点、35本の3Pに終わった 1987年 ○11月6日 シーズン開幕戦。 フィラデルフィアで見るに耐えないひどい試合を行ったが、 一つの小さな希望があった。 デビュー戦に6本中4本のシュートを沈めたルーキーである。 1988年4月23日 ニューヨークニックスとの最終戦に敗れるも、彼はNBA ルーキー記録のシーズン61本の3Pを決めた。 知っての通り、これは彼の序章に過ぎなかった。 1988−89年シーズン スターターになり、チームのセカンドオプションになる。 平均16得点をあげるもチームは28勝54敗と低迷。 オールスターウィークエンドの3Pコンテスト4位、シュート アベレージ244本中98本でリーグトップ10の数字を あげる。 1989−90年シーズン 攻撃の1stオプションとなり、平均24.6点をあげて、 81年以来インディアナを史上2度目のプレーオフに導く。 1977年以来久々のインディアナからのオールスター選手 を輩出し、プレーオフ初戦で、優勝したデトロイト相手に平均 20点をあげた。 その後、ミラーは14年で13回のプレーオフへとチームを 導くことになる。 1990−91年シーズン 51連続フリースロー成功を収め、7年間90パーセント 以上のFT率を誇る。 はじめてチームはプレーオフで勝利を収めるが、セミファイ ナルでボストンに敗れる。 1992年4月 ミラーはレギュラーシーズン平均20.7点をあげるが、 ボストンとのプレーオフではより多い27点をあげる。 ミラーのプレーオフキャリアアベレージ21.2点は レギュラーシーズンのキャリアアベレージより3点近く 高い数字であり、勝負強いシューターとしての彼の名を 高めることとなる。 1992年11月28日 チームは連敗で5割を切り、シャーロットホーネッツ戦を 前に2時間のミーティングを行う。 なにについてか? レジーはよりシュートを打つ必要があった。 「俺はレジーになっていなかった」 「悪くはなかったが、イーストで2番目のシューターとして もう一度自分自身を取り戻さなくてはいけない」 (1番はマイケル・ジョーダン) と語り、29本のシュートを放ち、16本を沈め、57点の キャリアハイをあげる。 1994年6月1日 ジョーダンがプレーオフから離れ、野球をしていた。 ミラーはイースタンカンファレンスファイナル第5戦、 4Qだけで25点をあげる活躍をし、勝利をあげる。 (チームはカンファレンスファイナルで惜しくも敗退) 1995年5月7日 ニックスとのプレーオフ。 残り18.7秒で6点のビハインド。 ニックスファンもニックスの選手達も勝利を確信していた はず。 ミラーは残り8.9秒から8得点を重ね、チームを勝利に 導く。 ミラーは自分の首を絞めるパフォーマンスをし、映画監督で あり、ニックスファンであるスパイクリーの前で、ニックスは 終わりだというアピールをした。 グレグ・アンソニーは取り戻せるといったが、結局インディ アナが第7戦を制し、カンファレンスファイナルへと進出 する。 1996年 ドリームチーム3に選ばれ、決勝のユーゴスラビア戦で ミラーは20得点をあげる活躍で、アメリカはアトランタ 五輪優勝する。 1996−97年シーズン ミラーは3年目以降久々のプレーオフ進出を逃す。 しかし誰が彼を非難できようか? 2年連続3P王で、平均21.6点をあげていた。 1998年 ミラーのクラッチシューターとしての名声はプレーオフを通 してより強調される。 ニックス戦ではオーバータイムへと突入させる3Pを決め、 イースタンカンファレンスファイナルのシカゴ第4戦では 残り0.7秒にマイケルジョーダンをかわし、3Pを沈めた。 しかしチームはカンファレンスファイナルで敗れてしまうが。 ロックアウトでシーズンが短くなるも、NBA記録の10年 連続100本以上の3Pを沈める。 (現在15年連続100本以上の3P・今年は残り59本) 2000年6月2日 ミラーはマディソンスクウェアガーデンで34点1BSを 決め、NBAファイナルに進出する。 しかしチームはレイカースとの6戦でタイトルを逃す。 2001−02年シーズン テロ事件に関して、彼は3P1本につき、赤十字への100 0ドルの寄付をした。 合計206000ドル(206本) 2002年5月2日 ニュージャージーとのプレーオフファーストラウンド第5戦。 40フィートの同点ブザービーターを決める。 しかしダブルオーバータイムでチームは敗れる。 2004年4月18日 ミラーはボランティア活動が認められ、NBAのウォルター ケネディー・シチズンシップアウォードを獲得。 10月4日 ミラーは2005年シーズンがラストイヤーのようなコメント をほのめかす。 「もしインディアナに住むペイサーズファンであったら、 毎試合見に来て欲しい」 「もしインディアナ以外に住むペイサーズファンであったら、 スケジュールをチェックして、インディアナが地元に来たと きに見にきてほしい」 2005年2月10日 ミラーはとうとう公式に引退を決める。 彼はカーライルHCに今年限りでの引退を伝える。 オースチン・クローシェアは「彼なしのチームを想像しがたい 」とコメント。 2005年2月11日 カーライルは朝の練習でチームにそれを報告する。 カーライルは「象徴的な日になるだろう」「残り30数試合 で彼の素晴らしいキャリアの終了になるような年にするべく 戦っていくつもりだ」