○インディアナのニューカマー 彼はスペインに自宅を所有しており、過去2年イスラエル でプレーしていたジプシーである。 今度は1度も訪れたことのない場所のチームで、役割も、将来 もわからない中でプレーすることになる。 また新しいチームメートと一度もあったことがなく、背番号が 何番なのかもわかっていない。 欧州で最も有名な選手にとっては奇妙な感じもする が、彼は色々なチームも渡り歩き、そしてなによりも バスケを愛する気持ちを持っている。 インディアナの人々と同じように。 ☆ヤシケビシャス 「いうなれば、バスケット馬鹿だね」 「インディアナのバスケについては色々聞いたし、 フージャーズ(インディアナの女子チーム)の試合 も見た」 「実際、どうなのかはまだ実感がないけど、とにかく インディアナのファンはNBAでもトップクラスの バスケ好きらしいね」 そのことはヤシケビシャスにとって、いい状況である のは確かであろう。 欧州のバスケファンの間では本当に有名であるが、 実質新人として、後ろ盾のないところで新しい生活 を始めることになる。 しかしヤシケビシャスはNBAには精通している。 リトアニアに住んでいた12歳の時にNBAを知り、 マイケルジョーダンとシカゴブルズに憧れていた。 また他にも、ドイツのフォワード、デトレフ・シュ レンプがいた1990年代前半のインディアナにも 注意を払っていたという。 NBAにおいて、欧州人選手は稀であった。 それ故に、シュレンプのような存在は欧州人にとって 誇りであった。 ヤシケビシャスは、ペンシルバニアの高校に通い、 そしてメリーランド大学に通った時にNBAとより 近い接点を得た。 しかし1998年のドラフトでは、得意のPGでなく SGとして4年次に平均13点を挙げただけに終わり ドラフトされずにリトアニアに戻ってプロ生活を 始めた。 7年後、29歳になり、2002年にサンアントニオ に加入したマヌ・ジノビリ以来のNBAでやれる外国 選手として広く評価されるようになった。 ジノビリほど身体能力は高くないが、優れたシュー ターであり、パッサーであり、賢さとやる気に満ち た選手である。 その武器があったため、彼のディフェンス面での 短所はあまり重視されなかった。 ☆ヤシケビシャス 「俺は世界最高レベルの身体能力を持った選手で はない」 「長所も限界も理解した上で上手くプレーしようと 思っている」 カーライルは心配していないという。 カーライルはヤシケビシャスをマーク・ジャクソンや クリス・マリン、そしてデリック・マッキーと比較し ヤシケビシャスはチームディフェンスの概念で、 守備面の問題をカバーできるという。 ドニー・ウォルシュはこういう。 ☆ウォルシュ 「ラリーバードのディフェンスと同じように考えて いるよ」 さすがにそれはいいすぎだ。 ☆リクルートの努力 インディアナ、クリーブランド、ユタ、ポートランド シアトルが7月のヤシケビシャス獲得争いに参戦し たといわれる。 ユタはインディアナの提示を上回る3年14ミリオ ンを提示していたが、欧州で弱小チームの建て直し を行うことを望んでいなかった彼は、NBAでそれ をすることを望まなかった。 彼は最終的にインディアナかクリーブランドのどち らかに選択をすることにした。 結局、インディアナの最大限のリクルートへの努力と ちょっとした幸運により、インディアナが勝利した。 ヤシケビシャスとイルガウスカスはヤシケビシャスが 6歳の時にバスケットボールキャンプで会ってから の親友である。 ヤシケビシャスはイルガウスカスの結婚式の介添人 を務めたし、ウィンブルドンに2人で観戦にいった りもした。 バルセロナでチームメートだったアンダーソン・ バレジャオもクリーブランドにいて、彼もまた 親友である。 クリーブランドのオファーを断ったことについて、 彼はまだ少し悩まされている。 ☆ヤシケビシャス 「それらが決めるのに時間がかかった理由だね」 「辛い日々だった」 「一緒にプレーすることが一つの夢だったけど、 インディアナでプレーするのが一番だと思った」 俺もイルガウスカスも残念に思ったよ。 これがインディアナと契約することの最大の難点 だった。 ☆ヤシケビシャス 「もう幼馴染とプレーすることはないだろうね」 ヤシケビシャスはクリーブランドよりもインディアナ の方がよりチャンピオンシップに近いと感じたので インディアナを選んだ。 しかし、インディアナの地道な努力が、よりヤシケ ビシャスの獲得を助けたといえる。 ラリー・バードとスカウトディレクター、ジョー・ アシュは欧州に何度となく、彼を偵察し、昨冬には 彼と会っている。 カーライルは少なくとも20回は電話をかけている。 ACのチャック・パーソンもしばしば連絡をとって おり、ヤシケビシャスの携帯番号を暗記している ほどだ。 ジャーメイン、ジャクソン、アーテストもまた連絡 をとったことがあった。 インディアナはFA交渉解禁日の7月1日にエージ ェントに彼らの気持ちを表して、誠意を見せた。 当初、クリーブランドを高く評価していたが、マルコ ヤリッチへのトレードの噂が出たことにより、違う チームを選択することも考えた。 ☆ヤシケビシャス 「インディアナは初日からオファーをくれた」 「最大限のやり方でね」 インディアナは明確な数字を示し、ヤシケビシャスに オファーしたが、クリーブランドは団体交渉協定が 未定だったために、オファー金額を決められずにい た。 ☆ヤシケビシャス 「インディアナが既に私を獲得する準備ができてい る気がした」 「彼らは百戦練磨だった」 「クリーブランドに誠意を感じなかった訳じゃない」 「でも、インディアナほどではなかった」 「自分の選択が正しかったかどうかは1年、もしくは 2年たってから話すことができると思う」 ☆欧州のロックスター ヤシケビシャスは過去3年、1年目はバルセロナで、 そして2、3年目はテルアヴィブで欧州選手権を 獲得してきた。 しかし彼がアメリカに最も印象を残したのは20 00年、04年の五輪であろう。 00年には最後の逆転3Pブザービーターを 外したが、5−11の3Pで27点をあげる大活躍 だった。 アテネ五輪のときは7−12の3Pを沈め、28点 をあげ、リトアニアがアメリカを倒す快挙をみせた。 1分間に12点、51秒で3本の3Pを沈めてみせ た。 アメリカは3位決定戦でリトアニアに雪辱したが、 ヤシケビシャスは5−9の3Pを決め、17点の 活躍をした。 しかし欧州での彼の人気はバスケの選手としての レベルを超えたものである。 彼の端正な顔立ち、そして情熱的なプレースタイル、 そして強烈な個性、シュートタッチ・・・まるで ロックスターのような名声を得ている。 彼がモデルとデートすれば、ファンが群がり、プレ ゼントの嵐、そしてメディアに悩まされ、そして、 1人の女性ファンがヤシケビシャスのオフィシャル ページを作るほどである。 欧州での彼は、選手以上の存在であった。 テル・アヴィブでのラストゲームではビデオトリ ビュートが流され、チームを離れないで欲しいという 1万7000ものの署名、そして仲間やスカウト達 からの要求された。 ヤシケヴィシャスはイスラエルで過ごした時は素晴 らしかったし、感謝しているという。 決して忘れないだろうという。 けれども、NBAに行くチャンスを逃そうとは 考えなかった。 彼はインディアナポリスでの静かな生活を楽しみに している。 ☆ヤシケビシャス 「テルアヴィブでは物凄い後ろ盾があった」 「代表チーム的存在であったしね」 「ただ馬鹿げていることも沢山あった」 「チームの調子がいい時は手がつけられない」 「プライバシーなんて全くなかった」 「イスラエル人は基本的にオープンで、人を放って おけない性質なんだ」 「いつも話しをしたがるし、プライベートな部分に も密接に関わってきたがるんだよ」 ただヤシケビシャスはファンやメディアの加熱する 扱いに不満を隠そうとはしなかった。 ☆ヨハフ・ボロヴィッツ(イスラエルジャーナリスト) 「彼は本当に賢い選手であるので、新聞記者の馬鹿 げた質問に我慢できない選手だった」 「イスラエルのファンの多くは、彼のへりくだった 態度に我慢ならなかったが、彼の輝かしいプレーの 数々にそれを圧倒して、ファンを魅了していった」 「残り6ヶ月で人々はまた彼の正直さとユーモアに ひかれていったと思う」 ヤシケビシャスはインディアナのファンにとって 人気になると思われる。 しかし、彼はスター選手というよりもむしろ興味深い 選手、そしてスターターというより、むしろバック アップ選手として、インディアナに来ることになり そうだ。 ヤシケヴィシャスもそれを理解し、新しいスタート をきる準備はできている。 ☆ヤシケビシャス 「(栄光とか)個人的ななにかをインディアナで 示すつもりはない」 「チームを助けたい」 「個人的な夢であるNBA入りを実現した」 「そのことに非常に興奮しているし、できれば、 インディアナが成功を続けるのを助ける一員に なれればと思っているよ」