○究極のチームプレーヤー ボビー・ジョーンズの特別なプレーは、 神々しいダンクでもなければ、スーパー ブロックショットもない。 もちろん多くのダンクとブロックショットを やってはいたが。 では、彼のトレードマークは得点時だった。 素晴らしいパスを受けたときはいつもジョー ンズは得点によってそのアシストに応えた。 ☆ジョーンズ 「ノースカロライナ大学でパスをしてくれた 人に対する感謝を学んだんだ」 「たとえレイアップをミスってしまった時で も、いいパスをくれた選手に感謝の意を示す ようにした」 「観客やコーチに向かって、こいつのおか げで得点できたんだって示したんだ」 ジョーンズは平均15点10R。 シュートアベレージは6割を超えた。 彼が2年次にはNCAAチャンピオンシップ 3位に食い込んだ経験もある。 ジョーンズのプロキャリアは74−75年 シーズンのABAのデンバーだった。 デンバーは元ノースカロライナ大HCの ラリー・ブラウンが率いていた。 ☆ジョーンズ 「ラリーはいつも守備面での激しさを求めて いた」 「俺の大学時代のHCディーン・スミスと 同じ考えを持っていた」 「彼は選手達に得点についてどうこうはいわ なかった」 「できる限り、相手を封じることを考えた チームだった」 「ラリーがいたことがデンバーにいった大 きな要因でもある」 「俺がノースカロライナでやっていたことの 延長だったからね」 ジョーンズはFG6割をマーク、BSは5位 スティールは8位をマークした。 オールルーキーチーム、オールディフェン シブチームにも選ばれ、デンバーは65勝19敗でリーグ1の勝率をマークしたが、西 地区の決勝でインディアナに敗れた。 ☆メル・ダニエルズ 「彼は大きくて、そしてよく走る素晴らしい 選手だった」 「どうやってプレーすればいいか知っていた し、いかに効果的にプレーするかということ を特に理解していた」 デンバーは未来の殿堂入り選手である2人 ダヴィット・トンプソンとオールスター センター、ダン・イッセルを次のシーズン に補強した。 ジョーンズは5割8分のFG、BS1位、 スティール5位の成績を収め、チームは再び リーグ1位の成績、さらにはニューヨーク ネッツをファイナルで撃破した。 デンバーは既に紙上の上ではもっとも層の 厚く、そして有力なチームになっていた。 ABAのオールスターゲームはデンバーvs 他のチームになり、デンバーは見事勝利し た。 だが、ジュリアス・アーヴィンが現れ、 次の年のファイナルは平均38点14R 5A3ST2BSの驚異的な成績を残し、 ニューヨーク・ネッツが優勝した。 ☆アル・アルバート(当時の記者) 「ジュリアスはとんでもない活躍だった」 「まさかボビー・ジョーンズからあんなに 得点を取れる人間がいるなんて・・・」 「とにかくそれだけジュリアス・アービング が凄まじかったかってことさ」 ジョーンズはアービングに対してのディフ ェンスを覚えている。 ☆ジョーンズ 「彼はなんでもできた」 「シュート、パス、ドリブル・・」 「3つの脅威を持った選手だった」 NBAとABAが一緒になった次のシーズン でも、デンバーはいい成績を収めていた。 50勝32敗。 ただアービングが加入した76ERSに 次いで、ミッドウェストデヴィジョン2位 の成績だった。 ジョーンズのFGパーセント5割7分で 3位、スティールで6位、そしてBSで 惜しくも10位以内に食い込めなかった。 ビル・ウォルトン率いるポートランドに 破れ、NBAタイトル奪取はならなかった が。 さらに次の年にミッドウェストディヴィジ ョンで優勝し、ウェスタンカンファレンス ファイナルに進んだ。 ジョーンズはFGパーセント1位で、さらに トップクラスのディフェンダーとして評価 を受けた。 ☆アルバート 「彼のプレーはブラウンの望むプレー だった」 「周りの優れた仲間の中で、彼はあらゆる 守備能力に優れていた」 「デンバーはファーストブレイク主体の チームだったのは、彼が相手を止め、リバ ウンドを取れるからに他ならない」 またジョーンズの守備面での素晴らしさを 語るのに、ブラウンはこういう。 ☆ラリー・ブラウン 「彼はスミスのもとで守備の重要性を学び、 勝つためになにをすればいいのか理解して いた」 「他のセンターで彼ほど守備に優れた選手 はいないとみんな理解していたはず」 ジョーンズはデンバーに完全にフィットして いると思われたが、1978年の夏にトレー ドで76ERSに移籍する。 健康状態という障害により、彼はデンバー でのキャリアを終えることになる。 ☆ジョーンズ 「デンバー時代から、不整脈などの障害が あった」 「そして癇癪もしばしば起こす時があった」 「それらの障害のための薬が、眠気と動き を封じ始めた」 「そしてそれがトレードの理由になってし まった」 デンバーは彼の身体面での不安に懸念を 抱いていたのだ。 ☆ジョーンズ 「デンバーは俺のキャリアに疑問を抱いて いた」 「もちろん俺もね」 「正直、来年どうなるかもわからなかった」 「そしてそこにトレードの話が来た」 「でも、デンバーを非難するつもりはない」 「俺が同じ立場にいてもそうしただろうし ね」 ただそのトレードはジョーンズのキャリア を亡くすものではなかった。 ☆ジョーンズ 「結果的に、フィラデルフィアに行き、 心臓の不安はなくなった」 「理由はともかくなくなった」 「薬も必要なくなり、かつてのプレーを 取り戻すことができ始めた」 それはかつてのライバルジュリアス・アー ビングとのプレーを意味することであった。 ☆ジョーンズ 「彼は素晴らしいチームメートであり、 みんなを勇喜付ける選手だった」 「スター選手にありがちな、他のチーム メートを蔑んだりしない選手だった」 「そして決して試合をあきらめない選手で あり、前向きな選手であった」 ジョーンズ在籍の7年で5回カンファレンス ファイナルに突き進み、3回のカンファレ ンスチャンピオン、そして1983年には リーグ優勝を果たしている。 1983年のプレーオフは12勝1敗。 その成績は00−01年のレイカーズの 15勝1敗まで破られることのない素晴 らしい成績だった。 モーゼス・マローン、モーリス・チークス アンドリュー・トニーといったアービング 以外のオールスター選手を抱えるチームに なり、ジョーンズは初めて平均2桁の得点 を切ってはいたが、6thマン賞を獲得す ることで彼の犠牲は報われることになる。 そのままのメンツで次の年を迎えるが、まさ かのプレーオフ1stラウンド敗退で、 シーズンを終えた。 ジョーンズはその原因をこう語る。 ☆ジョーンズ 「様々な理由があるが、チャンピオンになり 周りがマークし、そしてチャンピオンになる というモチベーションが少し欠けていた」 「みんながプレータイムを求めるようになり チームのことよりも、自分の契約のために プレーしているようだった」 フィラデルフィアは新人バークリーを獲得 し、カンファレンスファイナルまで再び 辿りついたが、ボストンにあっさりと破れ、 そしてジョーンズも次のシーズンの終了と ともに引退した。 ジョーンズは12シーズンで11回のオール ディフェンシブチームを獲得した。 彼が賞を獲得できなかったのは最後の年だ けである。 決して平均20点越えはなかったが、彼の FGパーセント率1位3度が得点力の高さ を物語る。 アルバートのこのコメントがジョーンズを 的確に表現しているかもしれない。 ☆アルバード 「チームをまとめる接着剤みたいな選手が いるとする」 「ボックススコアでは測れない、彼らなし ではチームが成り立たないような選手のこと である」 「彼らがいるからチームが成り立つ」 「そしてもし接着剤的な選手というものが 存在するのであれば、ボビー・ジョーンズ こそスペシャルな接着剤的な選手と呼べる んだろう」