○自分の道を選ぶ 大学1年次はいつも不満だった。 スターターになれても、自分のやりたいゲームを させてもらえなかった。 チームは名コーチの組織的なオフェンスの下、 規律つけられていた。 そんなプレースタイルは俺の弱点をさらけだして くれた。 外からのシュート力が必要だった。 ただ夏にはその不満をモチベーションに変えて いった。 一生懸命練習し、シュートを改善した。 2年次には16連勝でファイナルフォーまで 進出した。 準決勝でアリゾナに負けたとき、俺は周りの みんなから支えられなければ立っていられな かった。 まさか負けるとは思えなかったから。 3年になり、再びファイナルフォーに進出したが ユタ大学に破れた。 すぐにチームメートのアントワン・ジェイミソンが ドラフトエントリーを発表し、そして俺もNBA にいきたい気持ちが強くなった。 しかし俺は自分の母親を説得する必要があった。 俺は母親に単位を得られることを伝え、なんとか 同意を得ることができた。 そしてすぐにプロのリストに載った。 それから色々な人と話し、色々な意見をいただいた。 元コーチのスミスには十分やれると思っていた という心強いコメントももらった。 俺は1998年のドラフトに参加することを決めた。 ドラフトでは4位でトロントがジェイミソンを 指名し、そのすぐ後の5位でゴールデンステイト に俺が指名された。 その後、すぐ2チーム間でトレードが行われ、 俺はいとこのマグレイディーがいるチームに 加入することになり、興奮を隠せなかった。 ラプターズと高額契約を結ぶと、なにを買いたい か聞かれた。 車か、マンションか、ゴールドジャージかと。 どれでもなかった。 まず新しい基金作りに金を投じた。 不幸な人たちに自分の幸運を分けてあげることが 自分にとって重要なことだと思っていた。 ルーキーイヤー以来、基金は多くのスポンサーから 提供を受け、58万ドルまで大きくなっていった。 子供達の夢がかなうように作られたものだった。 素晴らしいアシストというのはバスケにおいて、 得点と同じくらい意味のあるものである。 他の人々の人生にアシストを与えることは同様に 意味のあるものだと感じている。 トロントのコーチだったブッチ・カーターは 初日から俺をかわいがってくれた。 彼が俺をこのリーグでやれることを示してくれ、 そして俺を信用してくれた。 1年目にオールルーキーファーストチームに なり、2年目にオールスターにファン投票で 選ばれた。 2000年のスラムダンクコンテストに招待され、 優勝した。 子供の時から、俺はダンクコンテストを録画し、 どうやればキレイに見えるかを研究していた。 だから俺は自分のダンクをみせたかった。 一つ目のダンクはベースラインからウィンドミル ダンクで、ファンを興奮の坩堝にさせた。 そしてフリースローラインからの強烈なダンク、 マグレイディーがボールをはずませ、それを俺が つかんで、股下抜きダンクをかました。 360度リバースウィンドミルダンクは満点を 得ることができ、観客の度肝を抜いた。 より高く飛び、そしてボールをぶち抜いた後、 リムに肘をひっかけ、何秒間がぶらさがったり もした。 ダンクコンテストは俺のお披露目パーティーに なった。 それ以降、あらゆる人間が俺の存在を知るように なったように感じた。 シーズンの後半、俺とマグレイディーはオンでも オフコートでも仲良くなった。 互いに従兄弟と知らずに育っていったので、なにか 特別なものを感じる。 2人の存在はトロントを初のプレーオフへと 導いた。 不運にもニックスに1stラウンドでやぶれたが。 シュートも入らなかったため、俺は多くの批判を 受けた。 聞き流したから、特に気にならなかったが。 次のシーズン前に俺はエージェント、タンク・ ブラックが悪事を働き、20万ドルを失った。 他のアスリートのお金も横領しており、牢屋に いれられた。 その事態を飲み込むのには苦労した。 家族は彼を完全に信用していたから。 マグレイディーと俺の関係を試す試練が2000 年にやってきた。 コーチは解雇され、マグレイディーはFAに なり、オーランドへ移籍した。 俺は2人で長年プレーすることを想像していたが、 彼はそうではなかったみたいだ。 そして彼が俺の人気をねたんでいたという噂を 聞いた。 およそ6ヶ月口を利かなくなった。 結局、関係が強かったので、私は彼が移籍したこと を許し、仲直りした。 彼がなにをいったいわないは過去のことであり、 気に留めないことにした。 マグレイディーが去ったあと、俺は自分の兄弟 クリスが麻薬所持により刑務所にいることを 知った。 学校を退学し、道を外れていた。 2000年シドニー五輪はそういったフラスト レーションから逃げ出す絶好のものになった。 アメリカ代表として、髪の毛をはやしてプレー した。 高校2年以来、ずっとスキンへッドだったのだが。 オープニングセレモニーは忘れられない。 イベントの大きさは感動ものだった。 その年のチームはドリームチーム3とつけられた。 長年五輪はプロに開放されていなかったが、バル セロナから解禁になり、プロ選手が出場するよう になっていた。 2回連続で金を獲得していたから、俺たちがそれ を止める訳にはいかなかった。 世界はアメリカが負けるのを望んでいた。 厳しいトーナメントだった。 何試合が厳しい試合を経験した。 リトアニア戦は2点差だったし、決勝も4点差 というものだった。 俺のプレーで語り継がれているものといえば、 フランス代表のフレデリック・ワイス7−2 の頭の上からかましたダンクシュートだった。 いまだ、多くの人々が過去最高のダンクだった ともいう。 シュートミスした後、俺はリバウンドを取り、 リングに向かっていった・・・ワイスが俺と リングの間に立ちふさがったので、俺は彼を 飛び越え・・・。 彼がのけぞってよけたのかと思っていた。 テープを見たときも信じられなかった。 トーナメントを通して、アメリカチームはスポーツマンらしい振る舞いでないとか批判された。 俺の振る舞いを批判する人間もいた。 俺は自分のやったことに後悔しているかといわれ れば・・・ 俺は自分たちのベストを尽くした結果、感情的に なったと思っている。 周りをしかったりするよりも、発奮させようと みんな感じていた。 スポーツはときたま極度の感情を呼び起こすこと がある。 数日間酷い想いもさせられた。 相手の連中は俺に対して悪質なプレーをしかけ、 そして俺は怒った。 世界の人々は普段と異なるヴィンス・カーターを 見て、そう思ったのかもしれない。 俺にとって、金メダルはNBAで優勝する以上の ことであった。 NBAは毎年優勝できるが、オリンピックは4年に 一度しかチャンスがない。 俺の母親は俺以上に俺が金メダルを取ることを 望んでいた。 フランスを85−75で倒した時、決勝を見に きてくれた母親を見て、俺は泣き崩れてしまった。