デヴィット・ロビンソンはサンアントニオの救世主といわれている。 数年前、元サンアントニオHCボブ・ヒルは今日の練習は終了で あることを伝えようとしていた。 『OK、今日は練習終了だ・・・もし・・・』 そして彼はロビンソンを見て・・ 『ロビンソンがファールラインからファールラインまでを・・・』 『逆立ちでいけたらな』 ロビンソンはチームメートが大笑いするなか、黙々と逆立ち をし始めた。 そして練習は終了した。 これがスパーズでのロビンソンを表わすもっとも印象的な 例ともしれない。 たとえ、水の上を歩けといわれても、ロビンソンは歩いた だろう・・・。 そして、それを実行したとしても、チームメートは誰も驚か ないであろう・・・。 ☆元スパーズオーナーレッド・マクコンボス 「彼がこのフランチャイズを守ってくれた・・」 「このフランチャイズは死んでいたんだ」 サンアントニオが出来て14年後の1987年、サンアント ニオは1巡目ピックでロビンソンを獲得した。 その後、チームは11シーズン中10シーズンプレーオフに 進み、さらにティム・ダンカンというスターを得て、1999年 にはNBAチャンピオンになり、NBAでも屈指の強豪となった。 さらに2002年には新しいアリーナーも出来る。 1987年ドラフト前のスパーズは酷いチームだった。 その前のシーズン、チームは平均たった8009人。 ろくな選手もいなく、古びたアリーナ。 多くのNBAオフィシャル達が、フランチャイズの移転以外に 生き残る道はないと信じて疑わなかった。 しかし、スパーズは1987年に7フィート1インチの大型センターを 獲得した。 但し、2年間の海軍での兵役がある選手だったが・・・。 いうまでもなく、デヴィット・ロビンソンだ。 去年も、ダンカンの怪我のため、プレーオフで敗れ去ったが、 NBA1のローポストを支える選手の1人である。 スパーズのために、ロビンソンは何100万円にもとってかわる 価値のある貢献をもサンアントニオにもたらした。 ダンカンの流出阻止だ。 ダンカンが今年の夏、FAになった時、ダンカンはオーランドから のオファーに気持ちが傾いていた。 しかし、ロビンソンはバカンス中のハワイから、サンアントニオに 飛び、ダンカンを説得した。 2人が頑張れば、またチャンピオンシップが獲れる・・・。 ☆ロビンソン 「俺達は2人で多くのものを築き上げてきた」 「それを途中で放りだしてほしくなかった」 「ダンカンは俺がここでプレーしつづけるのかに興味を示した から、俺は続けると伝えた」 「俺はダンカンが残ることが、彼にとっても、俺たちにとっ ても、一番の選択だと考えていた」 共に怪我さえしなければ、もう一度チャンピオンシップを 獲れるかもしれない。 ダンカンの存在はロビンソンの負担を軽減してくれる重要 な存在だ。 去年のプレーオフでも、ダンカン不在故に、多くの出場を 強いられ、多くのプレッシャーを受けた。 肩や背中に不安があるロビンソンにはあまり多くの時間 の出場は選手生命にかかわる。 ☆ロビンソン 「(そのプレーオフは)ティムがいなかった時代を思い出したよ」 1987年にスパーズがロビンソンを獲得したときから、ロビンソ ンのスパーズ援助は始まったともいえる。 当時のサンアントニオは明確な未来予想図が見えなく、多くの 人間から、2年間海軍で頑張って、FAになってから、レイカース・ やセルティックスを含めたほかのチームにいくことを勧められた。 ☆Red McCombs 「彼にそう勧めていた人間は本当に多かった」 「私は、とにかくサンアントニオは彼にとっていい場所であると 伝えるだけだった」 Red McCombsと同じく、元オーナーのアンジェロ・ドロッソスはロ ビンソンの元へ行き、サンアントニオ川沿いでのパレードを約束す るなど、VIP待遇によってロビンソンを是が非でも獲得しようとした。 その甲斐もあり、ロビンソンはサンアントニオに加入した。 サンアントニオは、ロビンソンといきなり8年2600万ドルの特待 をし、5年後にはNBA2位以下のサラリーにはしないという条項 まで加える好待遇ぶりで彼を迎えた。 ☆Red McCombs 「率直な話、契約の内容なんてどうでもよかったんだ」 「とにかく、彼にサンアントニオに来て欲しかった・・」 さらにマクコンボス氏は、4700万ドルを投資し、フランチャイズ をサンアントニオに維持し、さらに、即、ラリーブラウンHCを獲得 するなど、ロビンソンのために精力的にチームの補強に努めた。 ☆Red McCombs 「私はこのフランチャイズのために4700万ドル投資した」 「しかし、デヴィットがこのフランチャイズ維持のカギだった」 「デヴィットがうちとサインしてくれなかったら、ラリーブラウンだっ て雇えなかったろう」 「デヴィットが来る前に、ラリーがサンアントニオに信用を与えて くれる必要があったんだ」 「そして、それをちゃんと果たしてくれた」 (ロビンソンは2年間の兵役のため、1989年に加入) ロビンソンは1年目からすぐにチームに勝利をもたらした。 56勝でチームはプレーオフ進出。 実力とともにファンも戻り、オーナーは、1993年、元のアリーナ から今のアラモドームに移した。 チーム収入もは1988年の900万ドルから5200万ドルに、 シーズンチケットも1300人から13000人と、10倍の売れ 行きだった。 そして、チームは1998年−1999年シーズンにユタとともに リーグトップの成績と、そしてチャンピオンシップを獲得した。 ロビンソンは怪我したときでさえもチームを助けた。 彼が怪我で76試合休んだシーズン。 チームはたった20勝しかできず、初めてプレーオフにも進出でき なかった。 しかし、それがサンアントニオにとって幸運の始まりだった。 チームは1巡目1位の指名権を勝ち取り、ティム・ダンカンを手に いれた。 紛れも無く、ロビンソン以来の素晴らしい大型選手の加入であった。 ロビンソンとダンカンは1年目からチームに56勝をもたらし、2回目 のチャンピオンシップへ進出させた。 ただ、ロビンソンの役割は2番目の地位に追いやられ、ダンカンは もっとも止められないオフェンスプレーヤーと評され、ロビンソンは、 単なるリバウンド兼ショットブロッカーになっていた。 もちろん、ロビンソンはなにも不平をいわない。 ☆ロビンソン 「ティムと私が両方とも目立つのは困難なんだ」 「どちらかが上手く調節しなくちゃいけない」 「私達がもし2人同時にボールに向かって走るとき、私は一歩 ひくようにしている」 「それが2人を上手くミックスさせる方法なんだよ」 ロビンソンはコートの外でも優等生だ。 多額の寄付と、多くの時間をチャリティーに費やす。 ルーキーシーズンから始めており、最近では500万ドルを惜しげ もなく、学校設立や育った母校のためなどに寄付した。 ☆ロビンソン 「コミュニティーに恩返しするのも私の責任の一つなんだ」 「私の建てた学校の生徒達が、またコミュニティーのために 貢献してくれることを祈っている」 ☆グレグ・ポポヴィッチHC 「ロビンソンの信念は、バスケ以上に人生により多くの成果を 残したいという望みからうまれている」 「目的なんてないんだよ」 「彼の夢は、ただプレーすることや、沢山のお金を貰って、沢山 のものを買うだけじゃみたされないんだ」 12年目の今、11回のプレーオフと1度のチャンピオンシ ップでも、ロビンソンは満たされないだろう。 ロビンソンの目標は単純明快だ。 出来る限り高いレベルでプレーしつづけることと、もしか するとダンカンとともにスパーズの新しいSBCセンターの オープンを迎えることかもしれない。 ☆ロビンソン 「私はもう4〜5年プレーできる」 「ただ、私が勝利に貢献できるかによるけどね」