○進路決定 セントジョセフ大学3年の春、彼は6月のNBAプレドラフト キャンプに招待された。 NBA規則の変更により、大学の下級生がドラフトに参加できる ようになった。 選手は一回ドラフトにエントリーすると、もうNCAAには参加 できない。 またそのルールはキャンプに参加するために代理人と契約しても NCAAには参加できない。 キャンプには2つの意味があり、一つは他のトップクラスの選手 とどれぐらい渡り合えるかを確かめる場所、もう一つはNBA スカウトがそういった選手を近場で見る場所として。 選手にとって、意味のあるものである。 キャンプからドラフトの1週間前まで、各々の選手は代理人と サインするか、もしくはチームに戻るかを選択することができる。 ネルソンはやれるかどうかを試すために、セントジョセフ大学 ACのモンテ・ロスとともに、シカゴに飛び、全てのスカウトの 前で13得点7アシスト0ターンノーバーと自分ができることを 示した。 すでにネルソンはセントジョセフ大学を数シーズンひっぱって きたし、このキャンプでもその能力を示した。 普通に彼を見てきた人間ならば、特に驚かないだろう。 オープンならきっちり決められるし、ハーフコートオフェンスを 上手く動かせ、ペネトレイトもできる。 NBAのスカウト達が疑問に抱いていた6フィートの身長という ものは、特に問題がないことを数字で示していた。 しかし、2003年のプレドラフトキャンプは、PGの年と考え られていた。 ボストン大学のトロイ・ベルはビックイーストカンファレンスの MVPであり、オールアメリカンのセカンドチームに選ばれて いた。 ベルはそのキャンプでも17点7アシスト4スティールと活躍して おり、全スカウトの賞賛を受けていた。 またスロベニアから来たサーシャ・ブヤチッチや、ハワイ大学の カール・イングリッシュといった他の選手達も活躍しており、 身長が低い彼は評価的にやや厳しいものがあった。 優れたPGが多く、ネルソンには身長の問題があったので、NBA スカウトからの話は指名の可能性には言及するものの、高い位置で のドラフトを約束されるものではなかった。 2巡目の可能性はあったが、保証契約の得られる1巡目という声は なかなか聞こえてこなかった。 友人やコーチなどの彼の関係者達は、ネルソンがどういった決定を するかを待った。 彼はフィラデルフィアに戻ったものの、インタビューで「まだ 決めていない」といい続けていた。 ネルソンは多くの関係者と色々話をした。 NBAステータス、お金を取るか、それとももう1年大学でプレー し、セントジョセフ大学の記録更新(既に新記録寸前だった)を 目指すかに悩んだ。 彼が最初に意向を伝えたのは、セントジョセフ大学のHC、 フィル・マルテッリだった。 その答えは「大学に戻る」という言葉だった。 とともに、コーチ、選手、そして熱心な数人のファンを呼び、 チームミーティングでそれを本人の口から発表した。 ジャマールの同級のタイロン・バーリーによれば、ジャマールが ドラフト行きを宣言するのだと思い、仲間たちは死んだように座 っていたという。 ジャマールがそれを伝えると、仲間たちから多くの笑顔が出た。 ジャマール曰く、何度もNBA行きを考えたが、学校および自分 のチームとして達成しうるものがあったこと、そしてドラフトに 参加するチャンスはまたあること、学校に戻るチャンスはもう 2度とないことを理由としてあげた。 そして自分が幸せになる決定をした。 自分はいまバスケットボールをプレーする選手の中で最も幸せな 選手の1人であろうとコメントした。 チーム状態がよかっただけにコーチ陣もジャマールの残留を 喜んだ。 2003年の11月に対戦したゴンザガ大学のHC、マーク・ フュ−もジャマールに対して、「戻ってきてくれてありがとう」 「君はカレッジスポーツ界において特別な選手だからね」と ジャマールに伝えた ジャマールは4年目の楽しく、そして今まで以上に素晴らしい シーズンにした。 とあるインタビューでジャマールはこう答えた。 「どうしてこうしたかって?」 「それは大人の世界に行くか、もしくは子供のままでいたいかって いう選択だったからさ」 たとえバスケットボールコートでなにかが起こったとしても、彼と 彼の両親はジャマールが大学を卒業したということを誇りにする だろう。 ジャマールの「決定」は、過去最高の判断の一つだったと理解 されるだろう。