志摩子は優しく命令を始める。
「祐巳さん、舌を出して」
おずおずと口を開く。
それでも出来るだけ伸ばそうと懸命に、祐巳は舌を出す。
反るようにされた舌先にタブを開けられた缶が近づき、傾き始める。
それに合わせ祐巳はもっとあごを挙げ、舌をヒクつかせる。
「はしたないですよ、祐巳さま」
そういって乃梨子が缶を持つ手を止める。
おあずけだ。
祐巳は渇望と羞恥から潤んだ瞳で乃梨子を見た。
それでも舌は上に、MA×コーヒーの方を指したまま。
「紅薔薇のつぼみがこんな事で涙目になったりしてへんですよ?」
乃梨子の、言い含めるようなおどけるような、そしてあざけりを含んだ言葉。
その隣の志摩子のやさしそうな、しかし微かに侮蔑のこもった微笑み。
だが祐巳はもう白薔薇姉妹に何も言い返す事はなかった。
(ずっと前にもう、わたしは考えることを辞めてしまったのだから)
そう一心に思いこむしかなかった。
缶の端から細い細い、褐色の糸が下がる。
祐巳はまるで極楽から降りた蜘蛛の糸のようにそれにすがりつく。
しかし手を使うことは赦されていない。
そしてその糸に舌を絡めようと必死に伸ばすさまは、亡者に劣らぬほどあさましい。
乃梨子の唇の端が左右に引かれ、ちろりと赤いものが覗く。
とたんにその糸は太くなり、流れに変わる。
祐巳は目を見開き、慌てて口を大きく広げる。
精神的も乾ききった喉が、時折妙に大きく鳴る。
「ぷっ。くくく、いやだわ、祐巳さんたらだらしない」
無様な音に志摩子は容赦ない言葉を返す。
その言葉は祐巳の目頭を熱くさせたが、祐巳はそれどころではなかった。
上を向き口を閉じずに液体を飲むことは難しい。
まして液体の量が増えれば呼吸などしている間などない。
祐巳は目を白黒させ手をバタつかせながら飲みつづけた。
それでも喉をゴボゴボ言わせても飲み切れなかった雫があごから首へつたう。
そこでやっと乃梨子の手が少し戻る。
「ふっふふっうふふふふ、祐巳さまぁ、カラーを汚されるなんていけませんよぉ〜」
「ふふふっでも祐巳さんだったらそんな粗相も可愛いらしく思えるわ」
そういわれる間も雫は滴りつづけ、祐巳のセーラーカラーの汚れは広がってゆく。
祐巳はふと、みぞおちにも冷たさを感じる。
襟元から下着にまで雫が入り込んでいるらしい。
志摩子は食器棚に赴き、下の開き戸から安っぽいアルミの平皿を取り出す。
そのままそれをひょいっと投げると、祐巳の足元で軽い音を立てて落ちた。
「でもそれ以上汚すときっと紅薔薇さまに怒られるわ」
「そうですよ祐巳さま。今度はちゃんと食器で飲ませてあげますからね」
乃梨子は祐巳の足元にしゃがみ、今度は平皿にMA×コーヒーを注いだ。
皿の端に出来る茶色の円。それが少しずつ大きくなり器一杯に広がる。
祐巳の眼はその色に釘付けになっている。
唇を開き舌がのぞく。
早い呼吸を繰り返す。
それはまるでお預けの指示を受けた飼い犬のように。
志摩子と乃梨子の目の色をうかがいながら、祐巳はおずおずとしゃがみ始める。
平皿の手前にひじを突くようにすればどうしてもお尻が上を向く。
(わたし、なんて格好してるんだろ…)
ふと浮かんだそんな思いを慌てて頭から追い出す。
それでもタイや髪を汚さぬように注意しながら、顔を近づける。
息が表面を揺らし小さな波紋を作る。
ちろっと舌を甘露に浸し、すくう。
ぴちゃ、と音を立てたことでまた叱咤を受けるかと身をすくめる。
何も言われなかったことに安堵し、今度はわざと音を立てて舐め始める。
そう、惨めな姿を晒せば逆に何も言われないだろう。
だが祐巳は自覚していない。
その考え方はもう調教に屈した者と変わらないということを。

「祐巳さま。祐巳さまは犬ですか?」
(そうだ、わたしは犬だ、犬なんだ、だからこのまま飲ませ続けて…お願い…)
「違うわ、乃梨子。祐巳さんは次の紅薔薇さまになる人よ」
「だってこれじゃまるで犬じゃないですか。ぴちゃぴちゃ音を立ててなんて」
「っ!」
乃梨子の内履きが祐巳の後頭部を踏み、顔が平皿に浸る。
祐巳はなんとか斜めに向き、なんとか溺れることは回避できた。
しかしMA×コーヒーで前髪とほおは汚れ、ひしゃげた鼻からも少し入ってしまった。
「憧れの紅薔薇のつぼみなんですから、もう少し人間らしくして欲しいですね」
乃梨子は踏むのを止めたが、今度は志摩子がぎゅうぎゅう踏みつける。
「そうね、まるで犬ね。犬、犬、犬!この犬!!」
「んうぅ!んむっ!うぅぅぅ……」

ひとしきり志摩子は祐巳を容赦なく踏みつけてから、今度はやさしく話しかける。
「祐巳さん、犬みたいだからもう舌を使わずにお飲みになったら?」
祐巳は雫が入らないように片目を閉じながら、二人の顔色を見る。
そしてその蔑みの眼のままに、もう一度平皿に顔をうずめる。
今度は唇を尖らせ、そしてじゅるじゅると大きく下品な音を立ててすすり始める。
「あはは!た、確かにこれは動物にはできないわね、あはははははっ」
「ははははははは、でも、口を尖らせてまるでタコみたい、ははははは」
「……というぐらい、MA×コーヒーがだいだいだ〜い好きなんだよ」
「、は、ははは、、、思わず失礼なことをいたしまして済みませんでした、、、」
「そ、そうね、祐巳さん、本当に申し訳なかったわ、、、ごめんなさい、、、」
二人の謝意の言葉を聞き、祐巳はタオルで顔と制服を拭きながら勝利を確信する。
薔薇の館のティータイム。
たまたま紅茶を切らしてしまった祐巳と白薔薇姉妹の会話。
それはどんどん横に逸れていき、いつの間にか好きな飲み物の話になっていた。
そして一番好きな飲み物一ヶ月分を賭けてプレゼンを行うなんてことに。
しかし祐巳にとっては真剣勝負だった。
なにせ白薔薇のつぼみ、乃梨子は千葉出身。
千葉と言えばMA×コーヒー。
クリーニング代でも、どんな手段を使い犠牲を払っても、と祐巳は勝負に出た。
挙げ句に二人の本性?まで引き出した。
これは充分脅しにもなる、もう逆転などあるまい、と祐巳は思った。

「では次は私ね。わたしはこの○○屋の特製豆乳が一番好きなの」
志摩子のお奨めはとてつもなくシブかった。
両手に持たれた2gパック2本のデザインもシブかった。
そしてかなり高価そうだった。
あんなものを一ヶ月分なんて、お小遣いが全部無くなりそうだ。
「でも普通の豆乳とは違って、青臭さなんてなくて、それでいて〜」
志摩子の屈託のない豆乳の紹介に祐巳はちょっと気が抜けた。
そうして志摩子の後ろで何か準備している乃梨子の様子が気に掛かり始めた。
「大豆本来の甘みってこんなものなのって驚いちゃったぐらいなの、でね、〜」
「あ、あの志摩子さん。乃梨子ちゃんは後ろで何を拡げてるの?」
「え、ああ、防水シートよ。汚したら大変ですもの」
床にちょっとした広さのシートが敷かれ、白薔薇姉妹はその上に。
祐巳の脳内で危険信号が灯る。
何かが起こる。
マズい。
ココにいてはいけない。
しかしビスケット扉はシートの向こう、白薔薇姉妹の背後にあった。
逃げ腰の祐巳の前で、乃梨子はゆっくりとタイをほどく。
志摩子も、手を自分のタイの結び目へと。

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