路面の荒れを踏んでしまったのか、シートがガタンッと揺れた。
とっさに自失気味の祐巳を庇おうと手を伸ばしたが、ひっと声をあげて振り払われる。
すみません、、
祐巳はすぐに謝ってくれたが、ショックだった。
それは、ふいに手を差し出され驚いたのではなかったから。
私の方を向き、私を見て。
私の中に、母の輪郭を見出したためだったから。
祐巳が、私を恐れた
額に汗がにじむ。
どうすればいい。
どうすれば。
必死に考えるがまだ考えがまとまらない。
しかしタクシーの運転手に行き先の変更を告げる。
福沢家でなく。
小笠原家の経営するホテルへと。
祥子でもわがままの利く、古参の支配人のいるホテルを選ぶ。
タクシーは広い道に出て都心部へ。
到着までの時間に余裕ができた。
だが焦燥感は収まらない。
祐巳をこのまま福沢家に返せば、きっともう二度と会えなくなる。
ご家族に恨まれるのは仕方ない。
しかし今、この手を放したら、、、もう一生逢えない。
お姉様には頼れない。
薔薇の館での、祐巳との始まりの時。
泣きくれる私の元に祐巳を連れてきてくれた時。
それはお姉様が私を思ってのこと。
私のためならお姉さまは祐巳を犠牲にすることを厭わない。
聖様は祐巳を癒すため逆に私を遠ざけるだろう。
それに聖様のあのやさしさは心に負われた深い傷ゆえ。
そんな聖様が今にも砕けそうなこんな祐巳のこころに触れられたら。
二人ともどうなってしまうのか、恐ろしい。
お母さま。
祐巳をあんな目にあわせたお母さま。
なぜこんなことを仕出かしたのかはわからない。
しかし、ひとつだけ確かなことがある。
小笠原家だからこそ起こった事態である、ということ。
忌まわしい一族、そして私はそのひとり。
まだ私はその家から離れることはできない。
いえ、一生できない。
でも、祐巳を失うのはいや、絶対いや。
自分のちからでやり遂げてみせる
薄氷を踏むごとく、雪渓を歩むごとく。
ホテルに到着した。
祐巳の手を引き、ロビーに進む。
ソファーのあるラウンジを避けるようにし。
公衆電話から見える長椅子に座らせる。
ガラスの檻に閉じこもり、父に電話する。
目は祐巳から離さず。
まず、母を決して怒らないようにと念を押してから。
自分の見た有りのままを説明する。
そして、そのときの母の言葉を。
絶句する父にもう一度念を押す。
そして祐巳と一緒にホテルにいることを話す。
そして父からも支配人に、便宜を取り計らってもらえるようにとお願いする。
父に説明しながら、祐巳を見る。
あの光景。あの祐巳。そして小さく座る今の祐巳。
声が震えないように、冷静に話す。
でも、涙が少しこぼれてしまった。
ホテルの一室。
広いけれど質素な部屋をぐるっと見回す。
あのリビングルームを連想させる要素がないことを確認してから、祐巳を招き入れる。
肩を抱き、手を握り。
そのまま一緒にベットに座る。
祐巳に髪がしだれかかる程身を寄せ安心させようとした。
そう、今隣にいるのが母でなく私なのだと思ってもらうために。
しかし祐巳は突然反応し出す。
両手で顔を覆い、肩を震わせながら。
ごめんなさい、もう会いません、ごめんなさい、、
懺悔の言葉を繰り返し始める。
私の髪の香りに反応しているなんて、思い当たるわけがなかった。
声を荒げないよう、何度も話しかける。
私よ、祥子よ、あなたのお姉さまよ
しかしそのたびに呪いが深くなってゆく。
出会った日のことを話す。
楽しかった思い出を話す。
しかしもっと呪いは濃くなってゆく。
そこで気付く。
母のかけた呪い、、それは、私を『よりしろ』としたものではないのか、と。
謝罪の言葉と共に、もう私に会いませんと誓うのは。
それは祐巳が私に知られるともう顔を合わせられない程の負い目を持っているから。
脱いだ服を丁寧にたたみ、下着はさらさないようにしていた。
そんな、恥じらいを捨てたわけではないのに全裸になった。
それはその負い目が、肌をさらすよりももっと恥ずべきことだったから。
人であることを否定されるような辱めをあえて受け入れたのは。
それを暴かれ私に知られるぐらいなら。
代償に、自分の過去も未来も捨ててしまえるぐらい辛いことだから。
外したロザリオを服の上に置いたのも偶然ではない。
下着のように隠さず、見えるように置いたのは。
もう、姉妹ではいられないという決別の意志。
しかしそれでもあえてそこに留まり、首輪を着けたのは。
人でなくなればまだ私のそばにいられるかもしれないという一縷の望みにすがるため。
母の言葉。
だって祐巳ちゃんだって許されないことをしているんだもの。
それは禁忌。
祐巳は私を愛している。
それも異性同士が愛し合うように。
私に恋をし。
私に性欲を持っている。
我に返る。
私はいつの間にか目を見開き、祐巳を凝視していた。
祐巳も同じように目を見開き、私の目を覗き込んでいた。
搾り出すような声。
悲しい唸り声。
声にならない声。
人でない声をあげながら、人のあかしである悲しみの涙をこぼす。
祐巳は気付いてしまった。
どんな対価や犠牲を払ってでも知られたくなかったことを、私が知ってしまったことを。
そっと、祐巳の手を離す。
指と指が離れた瞬間、祐巳の指が私の手を追いかける。が、すぐ降ろされる。
両手は膝の上で握り締められ、あきらめと絶望を語る。
でも。
大丈夫よ、祐巳。
祐巳ってこんなに激しく、人を愛せるのね。
いつもあなたには驚かされるわ。
私にもできるかしら。
祐巳みたいに激しく。
祐巳を愛することが。
微笑みながら、手はロザリオを取り出す。
その手を高く差し上げると、私と祐巳の視線は自然と揺れるクルスに向かう。
あなたから姉妹の縁を切るなんて許されないことよ
この私が絶対許さないわ
だからもう一度かけてあげる
でもこのロザリオは姉妹の契り、というだけではないのよ
だってこんなけなげな妹に恋しない姉はいないもの
私はあなたが恋しいの
あなたは、あなたはどう、祐巳
このロザリオに言える?
私に恋してるって
このロザリオに言える?
ずっと私を愛しますって
私は誓うわ
だから、これはあなたのもの
もう一度あなたに受け取って欲しい
祐巳の両手がまるでつぼみがほころぶように開く。
少しづつその手が上にかざされてゆく。
ロザリオへと差し出されてゆく。
そうして手のひらはもろく壊れそうなもののようにクルスをそっと包み込む。
その横顔は人でなく。
天使だった。
祐巳のご両親に外泊のお許しを貰うためにお電話をし。
その日はそのまま二人で泊まった。
会話はほとんどなかったが、できるだけふれあうように。寄り添うように。
眠りにつくまで、そうした。
朝を迎え。
祐巳は私に、いいんですか、と訊いた。
私でいいんですか、と、ご家族に知られてもいいんですか、と。
ぜんぜんかまわないわ、と答えると。
祐巳はこともあろうか私の母の心配を始めたのだった。
恥ずかしいけれど、辛いけれど
でもお姉さまにお許しいただけるなら、もう一度、お話したい
もし後悔されていてお心を痛められていたら、もう忘れましたとお伝えしたい
逆に、お姉さまとのことをお許しくださいと謝りたい
信じられなかった。
父に電話をし、母の様子を尋ねる。
母も自失状態だったが、父が必死の様子に我に返り、パニック状態に陥った。
一夜明けパニックは収まったものの。
自分が何をしたか父から聞き、とんでもないことをしてしまったと泣きつづけていると。
そんな母の状態を祐巳に告げ、本当にいいの、ともう一度尋ねる。
清子小母さまのためなら
私にはもう目を閉じ、すまないわ、と言うしか出来なくなっていた。
祐巳にチェックアウトの準備を頼んで部屋を出た隙に、父にもう一言。
父にまで祐巳のあの姿のことを話してしまったことを口止めし、そして電話を切る。
そして想うのだ。
愛する人がいるということはこんなに人を強くするということを。