ウテナは、ベッドから起きられるほどに回復して来ると、
最初からの疑問が押さえようも無くなって来た。
まあ、いくらウテナが細かいことを気にしない娘であっても、さすがに自分がいまどこにいて、
自分の世話をしてくれている人たちが何者なのかを「知らない」訳にはいかなかった。
医師と看護士が今日の診察を終えて部屋を出た後、
ウテナを「姉」と呼び、大人たちを差し置いてこの場を仕切っている少女に声をかけた。
「ねえ、そろそろ君が誰なのか教えてもらえるかなあ?ボクは天上ウテナ。14歳」
窓から外を見ていた彼女は、ウテナの枕元に歩み寄り、
跪いて視線の高さを合わせてくれたが、ベッドのカーテンの中には入らなかった。
「出来れば良く顔を見せて欲しいんだけど…」
そう言われて初めて少女はカーテンを開いた。
耳に懸からないほど短く切った髪は前髪だけが少し長く緩やかにカールしている。
最初に見たときは髪の長さ以外はまるで鏡に映したようにそっくりだと思ったのだが、
その相貌は憂いを秘めて、自分とはかなり雰囲気が違うことに気付いた。
「わたしは剣ミツル。14歳。ミツルは光と書くのですがいつもカタカナで通しています」
名前の表記なんてどうでもいいんだけど、とツッコミたくなるがだまって続きを待った。
「わたしが何者か説明すると長くなりますが…」
「出来れば、詳しく聞きたいな」
ミツルがベッドサイドに椅子を寄せ腰を落ち着けると、ウテナもベッドの上に身を起こした。もう痛みは無かった…。
ミツルはその話をまるで昔話かなにかのように語り始めた。
ご存知かしら、ご存知かしら。
昔々…。
剣家の当主、剣光悦には跡継ぎとなる男子が居りませんでした。
そこで、光悦は一人娘の瑠璃に婿を取ることにしたのですが、
瑠璃は父の意に反して、自身が選んだ男性と激しい恋に落ちてしまったのです。
相手は、光悦がパトロネージュしていた若い彫刻家、天上豪。
ふたりの恋の切っ掛けは皮肉にも、光悦が娘の誕生日に肖像彫刻を贈ろうとしたためでした。
場所は南北の日本アルプスを一望にする高原に建つ剣家の夏の別荘。
豪は東京のアトリエから、逗留中の光悦に呼び出されそこを初めて訪れました。
そこで、娘の瑠璃の婚約祝いと18歳の誕生日祝いを兼ねた、肖像彫刻を制作して欲しいと依頼されたのです。
こうして豪と瑠璃は出会いました。
ここまで聞いた時、すでにウテナは爆発寸前だった。
…とうさん、かあさんは一緒に住んでいたボクにはこんな話は一度もしてくれなかった。
それなのにこの娘は何で知っているんだ…
「つづきは明日にした方がよいのではないですか?姉様」
眉を吊り上げ顔を真っ赤にしたウテナを見てミツルはこう言ったが、
ウテナはブルンブルン首を横に振って即座に否定した。
「ぜひ、続けてください」
「この話をなぜわたしが知っているかと言いますと、別荘の管理人の野崎さんにせがんで何百回も聞いたからです」
ウテナの心を見透かしたような補足説明を入れてから、
ミツルはコホンと小さな咳払いをして物語を再開した。
ご存知かしら、ご存知かしら。
豪は、パトロンの若い愛娘のためにそれはそれは熱心に制作に励みました。
決して大作ではなかったのですが、全身全霊をあげた仕事になってゆきました。
一心不乱にスケッチし、のみを振るい、またスケッチし、のみを振るう。
一方の瑠璃は世間知らずのお嬢様育ち。
脇目も振らずに仕事に打ち込む男性を間近に見るのは初めてのことでしたから、
胸は激しい恋心ではち切れんばかりになるのは無理からぬこと。
そのうえ、豪は長身痩躯、長い髪を背中で束ねた美青年。
手だけはしっかりと彫刻家らしい、大きく分厚い力強いものでしたが、
猛々しいところのない優しい人柄でした。
…そうだ、いつも肩車してくれたとうさんの背はとても高かった。回りの子たちが羨ましがったものだ。
その手はとても大きくてぶ厚かった。みんながびっくりするくらい。そんなとうさんが誇らしかった…
この若いふたりが3週間も一緒に居れば、一方の恋の炎がもう一方に燃え移るのは当たり前のことでした。
けれど、なぜか当主の光悦はふたりに釘を刺すどころか放っておいたのです。
まるで、ふたりがそうなることを望んでいたとでもいうように。
でも、若いふたりにはそんなことは判るはずがありません。
ただ、偉大な父親に対する反逆。出資者に対する裏切りという重圧だけが膨らんでいったのです。
ある日、耐えきれなくなった瑠璃はとうとう言いました。
「わたしを連れて逃げて」
豪も言いました。
「君のためなら夢を断とう」
こうして、ふたりは「ふたりだけの世界」を求めて逃げ出したのです。
剣財閥の目を逃れて…。
あとには完成目前の美しい少女の頭部像だけが残りました。
小さな部屋を借り、豪と瑠璃はささやかな暮らしを始めました。
大変なことになると思っていたのに世間はふたりをまるで存在しないかのように優しく無視しました。
信じられないような凪いだ暮らし。
豪は毎日、決まった時間に勤めに出て、決まった時間に瑠璃の待つ部屋に帰る。
それは、神様がくれた奇跡の時間だったかもしれません。
2年ほど経った頃、瑠璃は新たな生命を授かったことを感じました。
明日にでもお医者様に行って診てもらおうと思った日に、
ふたりが駆け落ちしてから初めて剣家からの連絡がありました。
「ご懐妊おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。」
「お子さまは双子のはずでございます。おふたりのうち、おひとりをお世継ぎとして当家にお返しくださいますようお願い申し上げます」
「お断りするまでもありませんが、くれぐれも当家の追求を逃れられるなどとお考えありませぬよう、お心にお留めくださいませ」
慇懃無礼な脅しでしたが、全てが本当のことだと瑠璃には判りました。
世間の金持ちの親の横暴などとは次元が全く異なるものです。
古くから剣家には禍々しい噂が絶えたことがありません
商売敵の不可思議な病死、事故死。
様々な戦のたびに拡大し続ける利益。
最近、汚職事件の追及を受けたときなどは、
雑誌社の編集長と編成部長が別々の飛行機事故で偶然、相次いで亡くなりました。
こうして、瑠璃は豪とのささやかな幸せを守るため、双子のうちひとりを差し出すことに決めました。
ミツルは話をつづけようとしたのだが、
ウテナは爆発した。
「かあさんがそんなことするかーーーーーー!!」
その5その7
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