唐突にドアが開いて、暁生はガラスの器から吐き出された。
剣本社ビルの高さは、うろ覚えだが、たしか400m位の筈だ。
その頂上部を占めている社長室がこういう姿をしているとは、
外部の人間である暁生には知る由もなかったが…。
暁生は池のなかに配置された飛び石の上に、辛うじて踏みとどまった。
エレベータのドアの外は池だったのだ。
水面には様々な水草が星空のように散りばめられて、その陰には小さな魚影が盛んに群れている。
水性の昆虫も色とりどりの羽根を煌めかせ、弾けるような軌跡を描く。
天井には青い光が満ちていて、雲も流れていた。
巨大な葉を茂らせた高温多湿を好む植物群が水辺を埋め尽くして、
目に入る人工物は、いま自分が出て来たエレベータのドアと池の中に点々と置かれた飛び石だけだった。
石岡と黒服が暁生の両側に並んだ。黒服は先に立つと飛び石の上を器用に跳ねて行く。
ぴょんぴょんと跳ねるその様は厳つい背中に全く似合わない。
そうして三人は熱帯雨林を思わせる池の中の道を延々と進む。
ここが地上400mのビルの最上階であることなど完全に忘れてしまいそうだ。
微温湯のような水面。ますます高くなる樹高。奇怪な鳥の声さえ聞こえきた。
…ワニが出るんじゃないか…
暁生は他人事のように状況を楽しみ始めていた。
何よりこの趣向は暁生の好みに合っている。
しかし、先を行く黒服と石岡はあまりこの庭が好きではないらしかった。
確かに仕事でいつも通うには少々野趣溢れ過ぎ、かもしれない。
…ワニはまだか…
少し飽きたなと思う頃、漸く一行は、
草が刈られて人が歩くことの出来る平地へと辿り着いた。
飛び石から上陸すると紛い物でも地面のありがたみが身にしみた。
島の真ん中あたりは少し高くなっていて、そこに重厚な暗褐色の木材で作られた大きな机が置かれていた。
そこに女性がひとりで仕事をしていた。机の端を見ると「受付」と立て札が出ている。
「ごきげんよう、翠さん」
「あ、室長。ごきげんよう」
受付嬢は手元の書類から顔を上げ、石岡にあいさつを返した。
石岡をただ室長と呼ぶからには社長秘書室の人間なのだろう。
…あッ人間かどうかは判らないか…
暁生はだんだん愉しくなって来た自分を戒めた。
まだ、見たこともない相手のペースに嵌まっている。
「光彦さん居る?」
「ええ、お待ちですわ」
「ありがとう」
石岡は愛想良く笑い、受付嬢に手を振ると、島の奥へと歩き出した。
名無しの黒服に促され、暁生もその後に従う。
受付嬢は通り過ぎる暁生にも小首を傾げてニッコリと微笑む。
暁生もニッコリ微笑み返そうとしたが、黒服が睨むのでちょっと会釈しただけで先を急いだ。
島の奥はより深い森になっている。
どうやら、この遊園地のメインアトラクションにさしかかったようだ。
その高さを推測すら出来ない巨木が目の前に現れたのだ。
熱帯雨林によく見られる蛸の足のような根を持つ樹木だが、こんな巨大なものは聞いたことがない。
他の樹に遮られてその樹冠は全く見えないが、それだけでビルほどもある巨大な幹が、
森のような根に支えられて空中に浮いている。
その根の間に黒服がどんどん入って行く。
石岡に促されるまま暁生も後について行った。地面(?)は思ったより乾いており普通に歩ける。
根と根の間には何人も並んで歩けるほどの間隔があった。
光源は何もないのに中心部に行くほど明るい。
近づくほどに眩しくて目を開けていられない。
やがて暁生自身のからだも光を放ち始め、何も見えなくなった。
全身が光るようになったとき、同時に重力も感じなくなった。
身体が軽い。恐らく身体だけで上昇している。
幹の中を通って天に向けて。
白い闇を抜けて次第に視界が戻ってくる。
重力を再び感じ始めると、どうも足元がフカフカする。
頬には風が当たっている。
視界が完全に戻ると、驚くことはもう止めたつもりだった暁生だが不覚にもまた驚いてしまった。
遮るモノのない空の下、巨木の樹冠に敷かれた枯れ葉の絨毯の上に立っていたのだ。
恐ろしく大きなドーム状の木の頂上部分に絡み合った枝と枯れ葉の積もったハンモックのような場所だ。
その視界から見て地上から500m以上はあるだろう。
そこに吹きさらしのまま執務机が置かれていた。
「剣本社社長室へ、ようこそ」
青空を背に簡素な机から男は立ち上がった。
180cmある暁生より、まだ背が高かった。
黒に近い紺地の簡素なシングル2釦のスーツを身につけ、
シャツも白無地、タイもスーツに合わせて濃い無地だ。
ほんの少しのぞかせた白のポケットチーフだけが唯一洒落っ気と言えた。
歳はよく判らない。
大股で枯れ葉の海の上を歩き、暁生に右手を差し出しながら無造作に近づく。
笑うと歯が白かった。
「鳳学園長!姪がいつもお世話になっております」
暁生に判ることがひとつあった。
…コイツは嫌いだ…
その10
その12
Return to flowers