千唾馬宮は必死に一歩一歩踏み出すが、
彼の細い身体で、ぐったりとした御影を背負っていては、
情け無い程にしか進まなかった。
「しっかりしてください!御影先輩」
奴らはなぜ追って来ないのか?
馬宮には判らない。
とにかく少しでも早く逃げることしか思いつかなかった。
涙で霞む目に夜会の光が陽炎のように揺らめいて見えた。
馬宮はその誘蛾灯のような怪しい輝きに向けて喘ぎながら歩き続ける。

「グォゥゥ…」
ピエールは歯を食いしばって悲鳴を漏らさないようにするだけで精一杯だった。
草の上を転げ回り、地面に額を打ち付け痛みを紛らわせた挙げ句、
身体をエビのように丸めて右腕を抱え込んで動かなくなった。
一刻も早く本部の天幕に戻って呪詛を解析しなければ、ここでは手の施しようがない。
全身を食い尽くされるまでにさほど時間はかからないだろう。
ジルは自分たちが敗北を喫したことを認めた。
これはもう救援を仰ぐ他ない。
だが、いま直に敵と対峙しているジャンヌたちに助けを求める訳にもいかなかった。
つまらない男の意地が邪魔をしているせいではない。
もし、ジャンヌが集中を途切れさせたら本当に決定的な敗北を招くことになるからだ。
…後方支援のはずが足を引っ張るとは…
…このドジめ!その右腕を切り落としてやろうか…
心の中で悪態をついたけれど、長きに渡る戦友にそんなことは出来ない。
…しかたない。あのいけ好かない野郎を呼ぶか…
ジルはマントの中から白い鳩を取り出すと底知れぬ夜空に向けて放った。
…リリスめ!部下の心臓に呪詛を仕込んでやがるとは…
…オレたちもヤキが回ったな…
ジルはつば広帽を地面に叩き付けた。

石岡のエスコートで、暁生は根室記念館の廊下をゆったりとした歩調で移動していた。
10センチほど背の伸びたアンシーとでも言うべき、仮の姿にもだいぶ慣れて来た。
これなら、たとえかなり怪しまれたにしても、アンシーや師匠に出会った時にシラを切れるだろう。
石岡のふざけたやり方にまだ腹を立てていたが、状況としては結構楽しめそうなことが判った。
男どもの纏わりつくような視線を絶対零度の笑顔で撃退するのも面白い。
裏庭で始まった戦闘の光景は刻々と暁生の脳内に送られて来ていた。
双方とも手ひどい傷を負い、戦いは混沌とした様相を呈し始めている。
暁生が夜会の会場内を危険を冒してうろつくことにしたのは、
脳内実況だけでなく、やはり自分の目で見たいことがあるからだった。
…ウテナに会いたい…
自分を裏切った妹や、自分が裏切った師匠に出会うのはウンザリだが、
かつて愛した少女には会いたかった。
以前の暁生ならば、小娘ひとりの心など如何様にも思い通りになると信じることが出来たが、
いまや、小娘に生殺与奪を握られている哀れな存在だ。
石岡から得た情報によれば、あの少女の姿をした魔物はウテナにそれはそれはご執心らしい。
いま一度ウテナを骨抜きにすることが出来れば、
あの魔物の『心』(そんなものがあるのならば)に楔を打ち込むという可能性が出てくる。
いまの暁生には、自分がウテナを利用したいのか、単にウテナに執着しているだけなのか、
自分の気持ちを判別することが、全くと言っていいほど困難だった。
少女の姿をしていると思考方法もそれに近くなるらしい…。

ミツルは何かに気付いたようにウテナにしなだれかかっていた頭を起こした。
「…」
「どうしたの?」
妹の微かな変化にウテナが反応し、気遣わし気に声を掛ける。
「少しお茶を飲み過ぎてしまったようです」
ミツルは頬を赤くしてウテナの耳元で囁いた。
ウテナはなんだそんなことかというように口角をちょっと上げて微笑んで言う。
「行っておいで。ふたりのお相手はボクがするから」
ミツルはジャンヌとアンシーを振り返り、ちょっと会釈して廊下の角の向こうへと消える。
陽子がそれに付き従った。
その23 その25
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