ウテナは声の導く方へと意識を集中した。
この漆黒の世界では、何も対象物が無い。
けれど自分が、もの凄い速度で移動を開始していることは、ハッキリと感じられた。
意識した方向へ、思考の速度で飛んでいるのだ。
やがて無限の闇のただ中に、針で突いたような一点の光が現れた。
声はそこから響いてくる。
ウテナは光へと突き進む。
見る見るうちに、それは広がって、優しい闇は一気に退ていった。
全てのモノを暴き出す容赦のない光が世界を被い尽くし、事象が津波のように押し寄せて来た。
ところが、溢れ出るその森羅万象のなかには、ウテナ自身の肉体は含まれていなかった。
自分の手も足も見ることが出来ない。
その世界でウテナは、意識としてだけ存在していた。
空中を漂う視点。純粋な観測者として。


そこに、ミツルがいた。
「ねえさまああぁぁぁぁぁぁぁあ」
痛々しいほどに幼い。
その細い体を震わせて、声の限りに叫び続けている。
「ねえさまを還せええええええええええ」


ミツルの叫ぶ先に、幼いウテナがいた。
意識だけの存在でなかったら、恐らくその姿に吐き気を催し、悲鳴を上げたことだろう。
それほどに幼いウテナの姿は、おぞましく、奇怪だった。
けれど、肉体の無い今の状態では生理的嫌悪感を全く生じない。
観測者ウテナは、鋼のように冷静だった。
おかげで、その光景を目を逸らさずに見つめ続けることが出来た。


幼い自分に何が起きたのかは、全く見当もつかない。
しかし、その姿はもう尋常なヒトでないことは、間違いようも無かった。
幼いウテナの腰から下には、滑り、蠕動する、巨大な、白い環形動物の胴体が繋がっていた。
ウテナは巨大なサナダムシの頭部になっていたのだ。
しかも、その巨体はどこまでも長く続いていた。
そう世界の果てまで…。


その場所は、とても大きな建物の中のようだった。
あまりにも巨大で、列柱の回廊の端は霞の中に見えなくなっている。
その柱に支えられている丸天井は空と区別がつかないほど遥かな高みにあった。
回廊を渡って行く微かな風には、遠い鐘の音が含まれている気がした。


ウテナの上半身を持つ長虫は言った。
長い髪が大きく乱れ、完全に顔を覆っているので、どんな表情をしているのか見ることは出来ない。
そして、その声には性別も年齢も無かった。
「わたし(たち)が、この娘を必要としている訳ではない」
「この娘が、わたし(たち)を必要としているのだ」
「この娘の運命は、わたし(たち)でなければ覆すことは出来ない」
「わたし(たち)とマレッジすることで、初めてこの娘は解放される」
「お前の父母は、そうなることを願っていたはずだが…」
「違うううう。そんなこと望んでないッ」
身を捩り、声を限りにミツルは否と叫んだ。
「嘘ではない。わたし(たち)は無垢故に、アダムの子らのように嘘は吐けないのだから」
「そのアダムを騙したじゃないかあああああ」
「本当のコトを教えただけだ。その後のことは知らない…」
長虫は微かに身をくねらせる。
「お前は、両親に聞かなかったのか?なぜ姉だけを手元に置いて、お前を祖父に差し出しのか…」
幼いミツルは項垂れた。
「聞いたよ…」
…でも母様は、そうは思ってなかった…
…ねえさまも『ボク』も誰かにも渡すつもりなんて、母様にはなかったさ…
…そのために『ボク』は生まれたんだから…
…だから、しっかりするんだ…
ミツルはキッと唇を結んで顔を上げた。
「おじいさまが、この回廊を維持できるのは、あとちょっとの間だよ」
「そして『ボク』がいなければ、これを構築することさえも出来なかったんだ」
「あなた(たち)がエデンに行き着けるかどうかは、いまは『ボク』にかかってる」
「………………」
長虫の頭であるウテナはこめかみを押さえ、老獪な策士のように黙考した。
「厄介な取引を仕掛けて来るね。新米の薔薇の花嫁よ」
「お前の一族は皆そうだ」
「損得勘定をこちらに振りおって…」
ミツルは、畳み掛けた。
「次に、誰かが回廊を開くのは何時なのか、あたな(たち)にも判らないのでしょう?」
「なら『いま』の方が大事じゃないですか?」
長虫の頭はイライラと乱れた髪を掻きむしった。
「気に食わない小娘だ。が、確かに道理…」
「いまは、エデンへの道を開くことが肝要。後は何とでもなろう…」
長虫は聳え立つような体を低く伏せ、ミツルと視線が合うところまで、頭を降ろした。
この時、初めて幼いウテナの顔が垣間見えた。
観測者の感情の無い目で見てさえ、それは衝撃と言えた。
…虚無…
…永遠の虚ろ…
「初めまして、エデンの蛇」
ミツルはその瞳を覗き込まないよう、慎重に視線を逸らせた。
「わたし(たち)は、その特定部分に過ぎない」
目を逸らせたままのミツルの手を、長虫の頭のウテナはそっと取った。
「けれど、君にとってあまり割りの良い取引ではないね」
「これでは君の姉の運命は変わらない」
一瞬、姉の顔を直に見そうになり、ミツルは慌ててまた視線を逸らす。
「『ボク』は絶対運命なんて信じないから」
「それに、あなた(たち)が力を貸してくれるのでしょう?」
幼いウテナは微かに笑った。
「後悔するよ。きっと」
「構わないッッッッ!」
「では、指輪を交換しよう」


観測者ウテナの意識はここでブッツリと途切れた。
再び、闇が全てを包むと、もう何も覚えていられなくなった。
その28 その30
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