艦が悲鳴を上げている。
喩えではなく、本当に泣き叫んでいるのだ。
…浸潤(しんじゅん)が起こっている…
艦を構成する基質(マテリア)が、リリスの羽根に触れた部分から
病変しているのだ。
このままでは数刻のうちに『王国到来号』は堕ち(フォールダウ
ン)てしまうだろう。
…離脱しろ!バレンシア…
ジルは戦慄き震える王国到来号艦内を、右往左往する黒手組を押し
のけつつ、艦橋(ブリッジ)へ向かっていた。
…あの気障野郎!全員討ち死にさせる気か?…
王国到来号は未完成だ。現状で正面からリリスと戦うのが無謀なこ
とはバレンシア公本人が一番知っているはずだ。
にも拘らずこの場で戦うのは、勝利のためではなく、偏にバレンシ
ア公の復讐心を満たすだけのものに違いない。
…これは、越権というより反逆だ…
元よりジルにとって『乾いた道(ドライウェア)』の権化とも言う
べき王国到来号など、どうなろうと知ったことではない。
が、しかし、リリスの呪詛に侵されていく戦友を助けるには、この
艦で脱出し大本営に戻ることが最善手。
それになによりも。
…これでは、ラ・ピュセルの足を引っぱってしまう…
いずれにせよ、いまは撤退しなければ、一方的敗北を喫するのみだ。
ジルは艦橋の大扉の前に立った。
黒鉄で造られているその扉は人の背丈の十倍はあろうか。
表面は一部の隙も無く凄惨な煉獄の様相を象った彫像で覆われている。
否、本当は彫像と呼ぶのは正確ではない。
それらのひとつひとつが総て、苦しみ、悶え、のたうっている。
煉獄の亡者そのものが、極限に圧縮されてここに複製されているの
だった。
聞こえてくる呻き声は、煉獄から直接響いて来るのだ。
これこそ、艦橋への扉の姿をした、この艦の動力炉だった。
煉獄の亡者の悲しい願いを燃料にしてこの艦は動く。
『世界の果て』の軍団に相応しい外道の船だ。
ジルは無数の亡者の中から、ラ・ピュセルと自分とピエールを見つ
け出すことが出来た。
もっと探せばバレンシアも、この艦の設計者も見つけられるだろう。
煉獄に繋がれた総ての者の願いは、一つなのだから。
…王国に迎え入れられたい…
その切なる願いを叶えることがこの動力炉の契約。
…詐欺師め…
…全員は乗せられんのを知っていて…
そして、その悲しくも激しいヒトの欲望は、途方も無い力を生み出す。
幾千万回も世界を焼き尽くすほどの破滅の力を。
…自己矛盾だ…
…それはもともとリリスの力なのだから…
幾ら寄せ集めてみたって、そのままではリリスに勝てる訳が無い。
…簡単に取り込まれてしまう…
…コアが無ければ…
力の大きさなどに意味はない。問題はその質と純度なのだ。
研ぎすまされた上智(ソフィア)が無ければリリスには対抗出来ない。
それには天の時、地の利、父の恩寵が揃わねばならぬ。
「ここを開けろぉぉぉぉぉッ!!!バレンシァァァァァア」
煉獄の門に、ジルの怒声が響き渡った。
いざとなれば己の刃「グラム」を抜くつもりであった。
…動力炉に穴を開けてでも押し通る…
けれど、どうやらその必要はなかった。
煉獄の亡者たちの絡み合った肉体の壁は、中央部分で解け始めた。
中から微かな光の束が溢れ出て来る。
「ジル・ド・レイだな?」
現れたのは間違いなくバレンシア公だった。
けれど、その様子は常とは全く違ってる。
「そう言うおまえはバレンシア公ではないな?」
バレンシア公の姿をしたモノは微かに笑い、ジルを見た。
ジルは本能的に視線を逸らせ、相手の深淵を覗き込まずに済んだ。
「この男の憎しみは、とても真っすぐで可愛らしかったよ。お陰で
ここへの道を得た」
…馬鹿な男だ。リリスの目を覗いたな…
バレンシアの後ろにブリッジ内部が大きく開けたが、そこには誰も
いなかった。
代わりにいくつもの白い柱のような物が立っていた。
…塩の柱…
バレンシア公の姿をしたモノは、話し続けた。
ジルは、何か違和感を感じる。
「このまま、何もかも焼き尽くそうと思っていたけれど…。でもも
う少し待つことにしたよ」
「大切なことを思い出したから」
「この男も、後ろの塩になった者たちも、いまから逆解析すれば助
かるだろう」
「誇り高き王者の剣『グラム』の主よ」
「今宵は、撤退なさい」
「もし、このまま開戦したいのならば別だけれど」
「貴様はどうする気だッ?!長虫」
「わたしは、夜会に戻って君たちの長とのゲームを続けようと思う」
ジルの感じた違和感の正体が分かった。
これは過去に顕現したリリスとは、かなり違うモノだ。
どちらにしろ、いま開戦することは絶対に避けなければならない。
どういう訳か、ジルとリリスの利害は一致していた。
ただし…。
「ラ・ピュセルを置いて行ける訳が無い」
もうバレンシアの声でさえなかった。
甘美な少女の声音だ。
それが囁くように言う。
「殺したりしない。傷つけもしない」
「それじゃあ、つまらないから」
…オレは腰抜けだ。惚れた女のために出来ることが何もない…
「何の保証も無くオレが引くと?」
「うん!そう思う」
バレンシア公はそのまま床にくずおれ、艦の叫び声は止まった。
ジルは己が悪魔の声に屈したことを知った。
その29
その31
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